「ここは……」
「今世話になっている連れの家だ。左近の家はもっと先なのか?」
「ええ……」

 壁にとかげが這って、天井の隅に立派な蜘蛛の巣でも張ってそうな古ぼけた建物を見てなのか、左近は上の空で返事をした。しかし三成はたいして気にとめなかった。自身も初めて見たときは、本当に誰かが住んでいるのか、と疑問に思ったほどだったからだ。
 かくん、と頭だけ垂れ、三成は言った。

「すまなかった。そろそろ暗くなる。気をつけるといい」

 気付けば昼の熱気はなりを潜め、涼やかな夕刻であった。まだ日は長いものの、薄ぼんやりとした橙に互いの顔が染まる。蝉もすっかりと鳴き声を止め、寝入ってしまったようだ。
 三成の言葉に左近は苦笑した。

「あなたのほうがよっぽど、危なっかしいですよ。家のなかに入るのを確認して、ようやく左近は安心できそうです」
「そうか?」

 ちょんと首をかしげてみせ、どこにそういった、保護者のような心配をされる要素があったのか考える。しかし、左近のことは左近にしかわからない。すぐに壁に行き当たった。

「ええ。頑なかと思えば、こんな会ったばかりの男に気を許して。もし俺があなたの財産を狙っていたり、欲を満たすつもりで近寄っていたらどうするのです?」

 左近は遠回しに注意を促す。しかし三成には理解できない。
 三成は自分の容姿にちっとも興味はなかったし、奪われるほどの物も持っていなかった。それに、もしそういった下心を持って近寄られ、実行に移されても、ただ喰むだけのことだった。左近に会い、自らの義を確立するまでは。

「どうもなにも、俺にはたいして価値のあるものはない。無一文だし、着ているものも、この羽織以外はどこにでもある、価値のない着物だ」
「いいえ、あなたの容貌はとても整っていらっしゃいます。そういった、衆道の気のあるひともいるので」

 三成は目を丸くして左近を見た。

「左近、それは暗に、お前は俺に気があるとでも?」
「いやいや、まさか」

 おどけて首をふる左近を、三成はじっとりとねめつける。
 知識としてはそういうことも知ってはいるが、これっぽっちも興味がなかった。遊戯蒐集家として生きた時間があまりに長く、生殖行為に対しても快楽に対しても、あまりに刹那的で不毛なことと認識していた。
 左近から視線を外すきっかけとなったのは、縁側から姿を現した兼続の三成を呼ぶ声だった。

「三成っ、遅いから心配したぞ!」

 慌てて草履をひっかけ、兼続は走り寄ってくる。
 太陽はさらに沈み続け、家についたときよりも深みが増していた。

「お連れさんがいらっしゃったようだ。俺も帰りますかね」
「あ、待て」

 踵を反した左近を、ほぼ反射的に呼び止めた。しっかとにぎりしめていた左近の着物を見て、慌てて手を離す。

「また、会いたい」
「……おやおや、左近に惚れましたかな?」
「もっと、話をしてみたい」

 茶化す左近の問いを無視して、三成は真剣に告げた。その真剣さに一瞬、まぬけな顔をした左近は、すぐに顔を元に戻してしっかりと頷いてみせた。三成は自然と表情を明るませた。

「俺は、この雑木林を越えて、まっすぐ歩いたところに住んでいます。用事がなければ大抵はいるので」
「わかった」

 三成が返事をしたのを見て、今度こそ左近は歩いていった。
 左近の背中を見送っていた三成の隣に、少し息を切らした兼続がようやく到着する。呼吸を整えるついでに、三成と一緒になって左近の背中を眺めて、口を開いた。

「あれは、今朝に会った男ではないか」
「ああ、この紅梅の羽織をくれた男だ」
「そうなのか? 初耳だぞ。それは自分で買ったものではなかったのか」
「呉服屋で試着していたら、いきなりな」

 浮くような足取りで家へ戻り始める。
 兼続はどうやら、奇妙な行動をするひとについて考えているようだ。もはやひとの心を想像することが得意とすら思えてきた三成にとって、簡単に思い当たった。しかし、想像することに時間もかかるし、言葉のほうが先に出てしまうことも多々あるのだが。
 三成の考えた兼続の今の思考はこうだ。

(一体、なんの利益があって三成に羽織を贈与したのだろうか。もしかして、なにか裏があるのでは。いやしかし、ひとを真っ向から疑っていくということは不義に値する。これは、義であろう、といったところだな)

 縁側にたどりついたところで、ようやく考えがまとまる。

「変わった男だな」
「そうだな。この雑木林を越えて、まっすぐ歩いたところに住んでいると言っていた。今度、会いに行ってみたい」
「この雑木林の先に……? 民家があったとは、知らなかった。ひとりでは迷うだろう。私もついていこうか?」

 縁側で脱いだ履物を正しながら、兼続が問いかけてくる。左近を探ってやろうなどという無粋な気持ちからではなく、ただ単純に三成を心配していることが聞いてとれたが、三成は首を振った。

「いや、いい。ひとりで行く」
「そうか?」

 居間の畳を素足で踏みしめて、崩れるように座り込んだ。蚊が一匹飛んできたが、周辺をうろうろと飛び回るばかりで、肌に食いつく様子は無い。それは兼続に対しても同じことだった。

「で、頭は冷えたのか?」

 その言葉で、瞬時に頭のなかでいろいろなことを思い出す。三成は、兼続と言い争いに近いことをして、頭を冷やすと言ってここを出て行ったのだ。自分のことや左近のことばかりに意識がいっていて、すっかりと失念していた。
 途端に気まずく感じた三成は、恐る恐る兼続の表情を見て、安心した。兼続の表情は別に怒っているふうでもなく、ただ三成のことを心配している様子しか見て取れなかったからだ。

「頭は、冷えた」得意気に鼻息を荒くして、さらに続ける。「いや、今日はいつになく充実していた。義や不義について、これほど時間を費やすものだとは思わなかった」
「それで、自分の義については?」

 うんうん、と頷きながら話を聞いていた兼続は、おだやかに先を促す。三成の調子を狂わせないようにという気遣いがささやかにあり、三成は心の底で兼続に感謝した。

「ああ。もう俺は、ひとを喰まぬ」
「ほう」
「いや、悪人ならば、喰めばこの世界を元に戻すことに繋がるのではないか、とも思ってはいた。お前とて、悪人ならば、という思いは多少なりともあるのではないか。口ではいくらでも言える。しかし言葉はただの理想だ。自分の本質が追いついているかといえば、そうでもない」
「……ああ。私もまだまだ、精進が、義が足りぬ」

 三成の問いにとまどうそぶりを見せながら、兼続は重く口を開く。さんざん三成に義を説いてきていながらも、まだ自分の義についての責任を負いきれていないという、恥が心のなかで燻っていた。
 見守るように三成に義を説いてきた兼続の、もっとも触れられたくない繊細な部分について指摘したことを、三成は後悔していない。むしろ、指摘することで兼続が考え直し、またあらたな面を見せるきっかけになるのではないか、とすら思っていた。

「お前の普段の言動からして、少々の食い違いがあったからな。それが余計に混乱したが。ひとを喰まずに、ただ、ひとを見つめ続けてみようと思う。俺が束縛するなど、ばかばかしいことだった。どういった世界になろうと、そのときそのときの美しさや、愛しさを見つけていければ、いいと思っている」
「はは、恥ずかしいな。私も本当に、まだまだ未熟者だ。三成、そこまで私のことを見ることができたのだ。ひとの美しさや愛しさを見つめることなど造作も無い。今を生きることのできるひとは、どこから見ても美しく、愛しいものだ」

 兼続との奇妙な差が縮まったような気がして、少しだけ心が躍った。自分の義について、ここまで考えることができた自分にも満足した。

「俺は生きるぞ、なにがあろうとも。ああ! ひととは、とてもおもしろい。お前も、俺の友ならば共に互いの義を貫き、生きようぞ」
「願っても無い申し出だ」

 兼続も三成も、互いの肩をたたきながら笑った。
 だるまは机の上で二人を見つめている。









06/24