こんな話がある。

 昔、あるところに盾と矛を売る商人がいた。その商人が言うことには「この矛は世界でもっとも鋭く、貫けぬものは無い」と。そして盾を手に取り、さらにこう言った。「この盾はこの世でもっとも堅強であり、どんな鋭いものも通さない」
 それを黙って聞いていた男はしばし考える。
 どちらを持っていれば自身にとって有利であろうか、と。確かになにものも通さぬ堅固な盾を持っていれば安全は確保できるが、それまでだ。といって矛ばかり強くとも盾が粗末ならば命を落とすこともあろう。
 だが、自分が命を落とす前に相手の命を奪えば、その心配は無い。なんといっても、世界で通せぬものが無い矛である。盾も鎧も突き通すだろう。しかし、矛が立派でもその力を発揮できるほどの力量があるかどうか、男は不安だった。
 散々悩んだ揚句に男は尋ねた。「それは両方を買えばいくらになる?」と。
 商人は法外な値段をつきつけてきたが、男は迷わず両方を購入した。
 世界で通せぬものは無い矛と、世界で通せるものの無い盾を手に、男は満足して家へ帰り、恍惚とその矛と盾を眺めた。
 ふと男は、自分の技量がどれほどのものか気になり、木に盾を括りつけ、矛を手に訓練をはじめた。なんでも貫いてしまう矛ならば、普通の木では太刀打ちならぬと考えたのだ。
 何度か盾相手に突きを繰り返した男は、ふと思った。

(この矛が通せぬものは、この盾であるのか)

 そう考えながらまた、突きを繰り出した。そのとき、豪快な男を立て、盾は真っ二つに割れ、矛は折れてしまった。
 驚いた男は商人の元へ飛ぶように向かい、強く詰め寄った。「そちらで買った盾と矛、すがすがしいほどに割れてしまった。どういうことだ」商人は涼しげに言う。「簡単な話です。世界一同士の力は見事に釣り合っていたのです」
 男は納得できなかったがしぶしぶと家へ引き返していった。
「あなたはまじめに考えた。それが落ち度ですよ」悪びれもせずに呟かれた商人の言葉を、男は拾うことができなかった。




 二重の意味からひとを喰み、ひとつのささいな興味からそれを曲げれば、不義になるか。己の義を曲げたことにはならないのか。三成の思考は完全に悪循環していた。男―左近の言うことも頭のうちでは理解しているつもりだが感情が追い付かないのだ。

(つまり、今、俺はどう思考し、行動している)

 また羽織りを被ってこもらんばかりの三成に、左近は苦笑し、おもむろに口を開く。

「三成さん、どう考えあぐねてもわからんものはわかりません。また日を改めれば違った視点からの世界が見えます。いえ、あなたの背景になにがあるかはちっともわかりませんで。時間があるのなら、たっぷり考えてはどうでしょう。焦ることなんてちっとも、これっぽっちも必要無いのですから」
 左近の諭すような穏やかな語調、優しくあがる口角、思わず納得しそうな言葉巧さに、心底首をかしげた。

 会ってからどれほどの時間も経っていないというのに、まるで自分も思考の病におちいったように話を聞き、親身に、かつ律儀に答えてくれる。
 三成は懐古した。その先にはかつて愛した過去が笑っている。そこには三成を迫害するひともおらず、つつましやかな生活がある。自分の頭を『母』のように撫でる存在や、ひとを喰む自分を叱る『父』のような存在も、親身に話を聞き、共に悩む気の置けない『友人』のような存在もいたかもしれない。三成にとってそういった存在は希薄になりかけていたが、漠然とそう思った。
 同時に三成は絶望した。左近はまるで愛した世界の住人そのものだった。それを猜疑でがちがちに固められ、上辺で意匠を凝らした心で見てしまっていた。
 針の先で揺れていた砂の城が崩れ落ちた。

「ひとを、喰まぬ。もう、喰まぬ。俺が生きる理由、義は、ひとを見つめ、守ることだ」

 唐突に呟いた。
 慎重に言葉を探しながらだったせいか、ひどくつたない口調だった。しかし、反して頭のなかにはなにもなく、今までの熟考はなんの意味も成さなかった。

「ひとを?」
「なんでもない、個人的な話だ」

 左近の訝しげな問いをはぐらかし、三成は立ち上がった。晴れ晴れしい気持ちに張り裂けんばかりの胸を押さえる。

(そうだ。義というものは深く考えるものではない。もっと直感的な、観念的な、忘れてはならないものだ)

 三成に合わせ、左近も立ち上がる。やはり見上げるほどの大柄な男で、その柔和な顔つきが不釣り合いに見えた。
 もはや三成は左近を怪しんだり、訝しんだりしなかった。
 左近というひとは三成にとって不思議なひとであり、また、長く生きた三成よりもずっと理知的で、わかりやすい話をする男と認識された、親身な存在だった。

「お前にはなんだか、世話になってばかりのようだ。ええと、左近、だったか」
「はい、左近です。しかし、随分と変わった悩みをお持ちでしたな。このごろは義などと言うひともなかなか見かけない」
「俺もつい最近に悩み始めたばかりなのだ。悩み始めると際限がない」

 まるで渇いた大地が一滴の水を貪欲に求めるような、吸収のしかただった。急速に取り入れては、やはり一滴では足りず、途端に渇いてしまう。また一滴と吸収しても同じことを繰り返す。劇的な量の栄養が必要だった。

「一種の言葉遊びのようだ。義というのもひとそれぞれであるが、ひとの義と自分の義を比較して、不義であるとか、ないとか。本当にざるのようだ。ようやく自分のなかで納得できたはずなのに、それでも不安が残る。だが、何者にも惑わされぬ強き義を、俺は持ちたいと思う」

 ささやかな強さを滲み出して、言った。そうでありたい、という理想と現実の差が急速に縮まったように思え、自然と表情が柔らかいものになる。
 家へ向かうために歩き出した三成の隣に、左近は少しの距離を置いて付き添った。不思議そうに左近を見上げ、自らの行き先と左近の顔をと何度も見比べる。

「あっちなんですよ、家が」

 左近が指差した方向は、確かに三成の行く先と同じ方向だった。ひともなかなかやってこないような場所に、隠れるように住むひとというのも変わっている。ゆっくりと足を進めながら、左近がこのような奥地にわざわざ住まう理由をあれこれ想像しはじめた。

(ひとづきあいが苦手なのか、それともなにかお忍びのわけがあるのか、はたまたかつては名を馳せたお偉方で、ひっそりと隠居しているのか)

 三成としては、一番最後の想像がもっともしっくりくるような、それでいておもしろいような奇妙な緊張や、戦慄を感じた。確かに左近と初めて会ったときは気圧され、思わず言葉を失ってしまい、ただの人間とは思えなかった。しかし話してゆくうちにそのひとなつこい笑みとやわらかな物腰にほだされ、最初の戦慄などとうに忘れてしまっていた。だが、三成は忘れることができないことがあった。この左近という男の表情が、一瞬でも貼り付けられた笑顔の面であるように見えたことが。
 非常にやわらかな物腰で、ひとをほだす笑顔を持っていようと、絶対的な自身を確立して、ひとと、ひとの繋がりというものがひどく曖昧で、空中楼閣のような、たよりないものであるという、その意思の強さがこの左近からは滲み出ていた。
 ある種、似たにおいを三成は嗅ぎ取っていた。左近とは決定的に違うものはあれど、他者というものは三成にとって信用ならない部分が確かにあった。それは愛した過去の世界の住人であれど、同じことだった。特に最近はそれが顕著になっている。全体として愛してはいるが、個々の問題となったら話は別だ。個人との付き合いがともかく下手な三成は、相手の気持ちを想像する前になにかを口走っている。
 しかし不思議なことに、一度領域にいれてしまえば三成は飼い主に腹を見せる犬のように無防備だった。ほぼ無条件に信じてしまうような、危うげなその無防備さを見せることもなかなか無かった。しかし、兼続や、この会ったばかりの左近は、すでにこの領域に足を踏み込んでいた。

「本当に、今日は世話になった。義についてや、この、鮮やかな色の羽織りも」
「義について、一日に何度も起伏して、忙しい方だと思いましたよ」
「そう言うな。なかなか繊細なものだ、義というのも。しかし、一度腰をすえれば揺らぐことの無い、堅強なものだ」

 左近は相変わらず笑っている。その笑顔に安心感と、奇妙な違和感を同時に抱えた。それは左近のあの言葉を聞かなければ気付くこともなかっただろう。

「なんにしても、自分のなかで確乎たる答えが出て、よかったですね」
「ああ。お前に会わなければ、俺はずっと義と不義を比較する、不毛な自己満足に耽っていただろうな。本当に、なにか礼をしたいものだが」
「いいえいいえ、それほどのことじゃありませんて。俺も、久しぶりにあなたみたいに悩むひとを見ました。昔はたくさん、葛藤が渦巻いていたのですが。近頃となっては目の前のものを甘受するひとばかりだ。思考しないひとに少々飽き飽きしていたのですよ」
「そう、か」

 左近の言葉に、共感できることがあった三成は、自分の鼻は間違っていなかった。と満足した。









06/24