「ぶあああ!」

 家に帰ってくるなり、とんでもない音量の泣き声が聞こえてきた。
 中学生になったばかりで、新しい環境にようやく慣れてきたばかり。部活に顔を出したりして帰りも日に日に遅くなってきていた。
 可愛い弟の顔を見る時間が減ることが寂しいものだったので、一時間遅れの弟の三成と交代で早めに家に帰ることにしていた。ちなみに私は囲碁部で三成が将棋部だ。この部活同士は奇妙な因縁があるらしいが、別に私たちには関係がない。
 今日は私が遅い日だった。
 この泣き声は間違いなく年の離れた、今は幼稚園の年長さんになろうという可愛い盛りの弟、幸村だ。三成がついていながらなんたる失態だ。おおかた、三成がまた生野菜を幸村に与えて幸村が泣いているのだろう。三成は肉類は食べない、加熱物も食べない。そんな人間だから生野菜ばかり食べている。
 三成は泣いている子供をあやすのがとてつもなくヘタクソだ。父さんは仕事からまだ帰っていないだろうし、私しかいない。そう思い、制服のままリビングに向かった。

「か、兼続……、お帰り」
「ぶああああ!」

 そこでは鼻の頭と目を真っ赤にして、大きな口を開けて泣く幸村と、今にも怒り出しそうでそれでいて泣き出しそうな三成がソファに座っていた。
 不思議なことに、三成も幸村も制服のままだった。帰ってきてすぐに幸村に生野菜を与えて泣き出されてしまったのだろうか。いや、それにしてはおかしい。幸村は元来、聞き分けのいい子供だ。そんなに長い間、癇癪を起こし続けるなんて考えられない。

「どうした?」
「幸村が……」
「ぶああああ!」

 幸村の泣き方は異常とも思えた。
 先にも言った通り幸村は聞き分けのいい子供だ。夜泣きもほとんどしなかったような赤ん坊だった。その幸村が、とんでもない声を上げて泣いている。

「ほら幸村、どうした? よしよし、小兄さんがなにかひどいことしたのか? あ、生野菜吐き出して頭叩かれちゃったのか?」
「そんなことするわけがないだろう」

 カバンを放り出して、幸村の隣に座る。すると幸村は鼻水だらけの顔で私の腹につっ込んできた。それからまたいっそう、強く泣き出した。
 男の子が泣くんじゃない、と言いたい気持ちもあったが、普段あまり泣かない子だけにそう無下に言うのもかわいそうに思えた。それに、こんなに小さい手でしっかりと私の腕を掴んでいる。突き放すのはあまりに心が痛い。

「よしよし、小兄さんは兄さんがこらしめるから、泣くんじゃないよ」
「うっ、ひっく、ちっ、小兄さんはっ、悪くない……」

 嗚咽交じりに幸村はそう答える。三成はそれ見たことか、と唇をとがらせている。
 見ると、三成の制服も鼻水まみれだ。先ほどまでこうやってあやそうと懸命に努力していたらしい。不器用ながらよく頑張ったとあとで褒めておこう。

「じゃあどうしてそうやって泣いているのだ。泣いていてはわからん」
「ぶああああ!」
「こら三成。そう問いただすものではないぞ。幸村が怖がっているではないか」
「……」

 落ち着いたと思った幸村が、三成の質問をきっかけにまた泣き始めた。ずっとこのやり取りを繰り返していたのだろう。
 納得がいかないと言わんばかりに三成は腕を組む。
 三成も別に幸村が嫌いでこう厳しい口調なのではない。むしろ年の離れた弟を目に入れても痛くないほど可愛がっている。ただ、元からこういう強い語調だからしかたがない。幸村も、三成より私に懐いている様子がある(三成が少しかわいそうだけれども)。

「で、なにか怖いことでもあったかな? 幼稚園で怪我でもしちゃったかな?」

 どっこらせ、と幸村を持ち上げる。真っ赤な顔をひたすらに悲しげに歪めている。
 しばらく幸村は黙っていたが、ようやく口を開いた。

「政宗くんが、幸村の家はお母さんがいないって言った。お母さんはどこにいるの?」
「……」

 これには、三成も私も絶句した。
 お互いに目配せして、どう答えたものかと考えあぐねる。
 母親はいない。そういえば私も三成もそういうからかいみたいなものは受けたような気がするが、双子であることが幸いして、鬱憤をためることはなかった。むしろ二人でそういった不義の輩をこらしめたりしたものだった。
 けれど、幸村はひとりぼっちだ。
 まさか幼稚園でそういった辱めを受けるとは思わなんだ。私も三成も迂闊だった。
 なぜ人間はこうも、何かが欠けた人間を謗るようにできているのか。芸がない。

「幸村、よく聞け。俺たちに母さんがいないのは当然だ。人間とは基本的に母親から生まれるものなのだがな、俺たちは父さんから生まれたのだ」
「お父さんがお母さんなの?」
「そんな感じだ」

 嘘をつくのが嫌いで下手な三成が、弟のために必死になって嘘をついている。なんとも涙ぐましい努力だ。
 その三成の嘘を完璧なものにすべく、私はフォローを出した。

「そうだ。子供というのは母親のどことも知れぬ穴から出てくるのだ。けれど父さんにはそれがない。私たちはケツの穴から生まれたのだよ」
「ぶっ」
「お父さんのお尻の穴から生まれたの!」
「ああ、そうだ。大丈夫、汚くはない。私たちが幸村を風呂に入れてやっているだろう? 安心しろ。その政宗とやらに大威張りで言ってやれ。『お前の父さんは子供を生めない男だが、幸村の父さんは三人も生んだ』とな」
「うん、わかった! ありがとう、兄さん」

 ようやく幸村の顔に笑顔が浮かんだ。頬も鼻も目も真っ赤で、鼻水と涙でお世辞にもきれいとは言えないものだったが、何者にも負けないかわいらしさがある。子煩悩ならぬ弟煩悩だ、私は(幸村もそうだが、三成も)。
 横で三成が眩暈を覚えているように額に手を当てている。

「おい兼続……、なにもそこまで言わなくてもいいだろうが」
「なになに。こういうことは信憑性を持たせなくては。いまどきの子供というのは口ばかり達者だからな」

 どうやら私のフォローに頭を痛めていたらしい。しかしそんなことはどうでもいい。
 すっかり泣き止んだ幸村の着替えを用意しなくてはならないし、自分も着替えなくてはならない。夕飯はどうするか。正直三成に作らせるとろくなものができないし、私もあまり得手とは言いがたい。父さんが帰ってくるのを待つか。
 などと思っているとドアが元気よく開く音と共に、陽気な父さんの声が聞こえた。

「たっだいまー!」

 大きな足音がリビングに近づいてくる。幸村は目に見えて嬉しそうにしている。三成は特別に表情を変えず、なぜか床に散乱している幸村の着替えをたたんでいる。
 リビングのドアを蹴り飛ばしたかごとく開けた父さんは笑顔のまま、一番近くにいた三成の頭を撫で、私の頭を撫でながら幸村を片手で軽々と抱きかかえた。

「んー? どうした幸村、ブッチャイクなツラしてよお」

 その言葉にも嫌味がなく、むしろスキンシップの一環にしか見えないのだから憎めない。三成も私も、そういう愛嬌はあまり受け継がなかった。幸村は言わば、期待の星である。
 その幸村はブッチャイク発言には目もくれず、ただニコニコと笑顔のまま、言ってしまった。

「お父さん! 幸村を産んでくれてありがとう!」
「え……、あ、……うん? おお、どういたしまして? あー……、うーん……」
「……」

 三成と私は顔を見合わせて苦笑いした。
 目に見えてうろたえる父さんを見るなんて、滅多にないことだった。

「ま、こちらこそ生まれてきてくれてありがとさん」

 その父さんの言葉は、上手く締めくくってくれたように思う。
 まだまだ手もかかるし、私たちも子育てなんて初めての経験で拙いところがあるだろうが、これからも弟でいてくれよな、幸村。
 なんて、思った。







10/28
(なんかいい話?で終わった)