「兄さん、『モエ』ってどういう意味だか知っていますか?」
「モエ?」


 今日の夕飯は小兄さんが担当したので、すべて野菜です。ほとんど種類の違うサラダばかりなのですが、健康的でいいと思います。しかし少し物足りないのが欠点です。
 食卓でレタスをパリパリと食べていた兄さんは、きょとんとした顔で私を見ます。隣にいた小兄さんはミニトマトを丸々口にいれた状態で私を見ています。父さんは特に気にしていないのか、キャベツにマヨネーズをかけています。なんだか我が家は草食家族みたいです。


「んー……、知っているような、知らないような。『萌黄』の『萌』の字か?」
「いえ、漢字は知らないのですが……。それってどんな意味なんですか?」
「それ、どこで知ったのだ?」
「部活の先輩が『幸村くんモエ』とよく言っているので……。しかし意味がよくわからないので調べたのですがどうにもわからず」


 ミニトマトを丸呑みしてしまったらしい小兄さんは、怪しむように聞いてきました。もちろんありのままを話したのですが、それっきり難しそうな顔をして黙り込んでしまいます。兄さんたちにもやはりわからないことはあるみたいです。けれど、それをどうして中学生の先輩たちが知っているのでしょう? 不思議です。
 兄さんもレタスを飲み込んだきり黙りこんでしまいます。やはりわからないのでしょうか……。困りました。本当に先輩たちに聞かなくてはなりません。教えてくれるでしょうか。


「どう説明したらいいのやら……。まあ、『好き』って意味と同じなんじゃないか?」
「ああ、そんなところだろう。他にも『かわいい』だとか『興奮する』みたいな意味が重複しているのでは? 端的な話、『自分の好みである』という意味合いだと思うが。……しかしだとしたら、お前の部活の先輩ってもしや……」
「三成、その先はシッ、だ」
「……いちいち唇を触るなッ!」
「おいおい、メシの最中にケンカすんなって。パパのゲンコツが大興奮するぜ?」
「……すみませんでした」


 兄さんはよく小兄さんをからかって怒らせ、父さんにたしなめられます。この様子がとてもおもしろくて私は大好きです。
 しかし小兄さんはなにを言いかけたのでしょう? 私にあまり聞かせたくないことがあったのかもしれません。知らないほうがいいと判断したのならば、知ってもいいことはないのかもしれません。『モエ』(萌えって書くのですかね)の意味がわかっただけでも大収穫です。
 『萌え』とは『好き』や『かわいい』という意味。……これはきっといい意味で使われる言葉だと思います。先輩たちは私がプールで練習している姿がかわいく見えるのかもしれません(泳げる人からすれば、泳げない人はかわいいのでしょう)。けなされているかそうでないかくらいはわかるつもりです。


「私、兄さんと小兄さん、父さん、萌えです」


 『好き』という意味があるのならば、これでもおかしくないです。


「……いや、幸村。多分、『萌え』というのは少し別の意味合いの、特殊な力があるのだと思う……。あまり無闇に『萌え』など言って回ってはならんぞ」
「え、そうなんですか」
「ああ……、あらぬ誤解が生まれるやもしれん」


 それは残念です。せっかく新しい言葉を知ったのに。これはPTOをわきまえないといけない言葉のようです。しかし、どのような状況で、誰が相手なら言ってもいいのでしょう。謎は深まるばかりです。


「そういえば、テストの勉強はどうなんだ? 明後日なんだろ?」


 『萌え』の手強さに気落ちしていましたが、父さんのその一言でさらに心が重くなってきました。
 授業中に先生が『今回のテストは簡単だから』と言っていました。それでは、あまりよくない点数を取りづらい雰囲気になってきます。『簡単なテスト』に苦戦してしまったら、自分の頭の悪さにショックを受けてしまいそうです。そうならないためにも勉強をしなくてはと思いますが、どこから勉強したらいいのかさっぱりです。


「そうだ、結局兼続は役に立たなかったからな。俺が教えてやろうか?」
「役に立たなかったとはなんだ!」
「いえ、大丈夫です。ただ、どこから勉強したらいいのかよくわからなくて……」
「はっはっ! まっ、慣れないことしたらそうなるわな。つまり、あんまり勉強してねえっちゅうことだな」
「……はい」
「ふむ……。勉強のコツなら私たちも教えられるぞ」
「そうだな。夕飯食べ終わったら幸村の部屋に集合。父さんは場所を取るからダメだ」
「はいはーい、っと」


 それから兄さんと小兄さんはナスの取り合いっこを繰り広げ、父さんにゲンコツを一発。ゴマだれドレッシングが和風ドレッシングか言い争いゲンコツ一発。ミニトマトか普通のトマトかフルーツトマトかでケンカをしてゲンコツ一発。昨日の晩、寝ている間に蹴っただの蹴ってないだのを討論しゲンコツ一発。しかし懲りずに『なんでお前と抱き合って寝なきゃならんのだ』『お前が抱きついてきたのだろう』『そんなわけあるか!』と抱きついた抱きついていないで悪口を言い合いゲンコツ一発。……と、今日の兄さんたちはたくさんゲンコツをもらっていました。父さんもそろそろ手が痛くなってきたみたいで、手をパタパタと振っています。
 夕飯を終え、宣言どおり私の部屋へ兄さんたちは向かい、私は父さんと皿を洗ってから二階へ行きました。部屋を覗くと二人は勉強の方法について話し合っているようです。


「要点のみを集中的に覚えるのはならん。ヤマカンみたいなものだからな。俺のヤマは当たらん」
「しかし全部を覚えるのは効率が悪いな……。一度全部解かせて、しくじった問題のみを繰り返しやるのがやはりいいだろうな」
「もちろん、解説もちゃんとしなくてはならん。……中学の勉強ってこんなだったか。懐かしいな」
「三成には難しくもなんともないだろう」
「お前だって。……まあ、もう中学の勉強など随分昔の話のようだ」


 いろいろと真剣に考えてくださっているようです。これは、期待に応えねばなりません。頑張って勉強しましょう。……兄さんたちと違って、そんなにいい点数が取れるかはわかりませんけれども。


「お、幸村来たか。今から私と三成で簡単な問題を作ってやろう。どの教科がいい?」
「えっと……、一応、全部やります」
「なら、俺は理科と数学」
「私は英語と日本史だな。国語はいいんだな?」
「はい、ありがとうございます!」


 心強い味方ができた気持ちです。今の私なら兄さんたちが普段話している難しいことも、勉強する気が起きそうです。
 問題を作っているあいだは遊んでていいと言われたので、兄さんの部屋に行き、机の上に置いてあるノートを見てみました。わからないでしょうが、兄さんが普段なにを勉強しているのかとても気になります。
 『仏文学概論A』……。Bもいつかやるのでしょうか。パラパラとめくってみると、英語(いや、フランス語ですかね?)と日本語がたくさん並んでいて、なにを勉強しているのかよくわかりません。


『フローベルは果たしてレアリスム派の作家であろうか(※文学史の定説をあまり信じてはいけない)』


 ……? 定説を信じてはいけない? 兄さんは普段、よくわからないことを勉強しているようです(そもそも、定説ってどういうことでしょう)。







09/07