昨日辞書で調べた結果、『モエ』という言葉は見当たりませんでした。念のため古語辞典や和英辞典、果てには兄さんの和仏辞典も見てみましたがありませんでした。インターネットの辞書でも調べましたが『燃え』という単語が出てくるだけで、私もよく知っている言葉です。恐らく先輩方はこの意味で使ってはいないと思います。『幸村くんモエ』……文の流れがおかしくなります。意味がわかりません。兄さんたちに聞こうと思っていたのですが、二人して私のベッドで寝てしまったので諦めました(私は床で寝ました)。

 そろそろ私は学校へ向かう時間ですが、兄さんたちはまだ寝ています。大学というものは、中学校よりも遅い時間に始まるようです。今日帰ってきたら聞いてみることにしましょう。父さんはもう仕事へ行ってしまっているようで、適当なパンを食べ、学校へ向かいます(一人だと少し寂しいものです)。
 登校は徒歩ですので、毎朝いろいろな人を見かけます。たいていは先輩や違うクラスの人で特に面識はないのですが、同じ小学校だった友達がたまに話しかけてきてくれます。そのほとんどが『中学慣れた?』だとか『勉強どう?』という普通の話です。そのたびに同じ答えを返すのもおもしろみがありませんが、みんな自分のことを話したいようなのでそれほど問題ではありません。私はみんなの話を聞き、変哲もなく相槌をうっていれば充分です。
 テストが近いせいか、みんなずっしりと重そうなカバンを肩にかけています。見ているだけで肩がこります。しかし私のカバンもみんなと同じように、とても重そうに見えるのでしょう。
 小学生のときは、テストがこれほど重要で緊張感があるものとは思ったこともありませんでした。今もあまり実感がないのですが、担当の先生方が『最初が肝心だ』ということを何度も言いますし、みんなもそうだと必死に教科書を眺めています。先輩方も難しい顔をしてノートの交換や、ワークの答えを貸しあったりしています。私もその一員になっていることは間違いないのですが、やはりわかりません。テストが終わったら、今回勉強したことって忘れてしまいそうです。それでいいのでしょうか?
 そうやって自分が特別に勉強していない言い訳をしていたら、政宗さんの少しくたびれたサラリーマンのような背中が見えてきたので、私は嬉しくなって走り寄りました。


「おはようございます!」
「ん……、ああ、幸村か。お前は朝から元気だな」
「政宗さんを見かけたからですよ」


 本当のことをありのままに伝え、嬉しさに顔が緩んでいるのが自分でもわかります。政宗さんも似たような気持ちであれば嬉しいのですが、なぜか驚いたような顔をして顔をそむけられてしまいました。少し押し付けがましかったでしょうか。


「本当ですよ。さっきまでテストのこと考えて、ずっと唸っていました」
「そーかそーか。そりゃ大変なこってな。わしゃァ、光合成だとか裸子植物だとか、被子植物だとかのことを考えとったんに、お前が話しかけるからスッポーンだ」
「えっ、それは、すみません……」


 悪いことをしてしまいました。しかし同時になにか、実体のないもやもやとした気持ちが浮かんできます。それを言葉にするのは難しく、今の私にはそれがなんなのかわかりません。ただ、それをハッキリと言葉にして知りたいと思います。兄さんたちなら言葉にできるかもしれませんが、私にはできません。
 政宗さんは無言で手を挙げ、ブラブラとさせ『気にするな』と態度で教えてくれます(多分、そういう意味だと勝手に思っています)。そういえば朝は喋る気がしない、と昔言っていました。
 やはり政宗さんは優しいです。兄さんたちは少し誤解をしているかもしれませんが、私がちゃんと知っていれば大丈夫だと思います。
 それから何も喋らないで二人で学校の門をくぐり、下駄箱で上履きに履き替え、一階の端の教室一年一組に向かいます(中学校はクラスの名前がA組やB組だと思っていたのですが、実際にはそうでなくてすごくショックを受けた記憶はまだ新しいです)。


「……なんで黙っとる?」


 教室に入り、自分の席に荷物を置き、私のほうを見た政宗さんは機嫌が悪そうに話しかけてきます(席替えで前後になっているのです)。機嫌が悪そうなのはいつものことですので気にしません。


「政宗さんは低血圧だって前に言っていたので。それに、お勉強の邪魔になるかと思いまして」
「……で、その間お前はなにを考えとった?」
「えっと……、特になにも」
「っかー! お前もその時間を使って勉強したらよいではないか」
「しかし……、数学なら昨日政宗さんに教えていただきましたし、家でもちょっと勉強したので」
「アホか。テストは明後日じゃぞ。それまでに忘れるかもしれんだろ」
「なら明日一気に勉強すればいいじゃないですか」


 昨日や今日に勉強したことを明後日までに忘れてしまうんでしたら、明日や当日に勉強したほうが時間を無駄にせずにすむと思います。一日で勉強するのは大変かもしれませんが、そのほうが確実のような気がします。兄さんはこういう勉強のしかたですが、小兄さんは毎日地道にこつこつと勉強していました。私はどちらがいいのかはわかりませんが……。
 政宗さんは呆れたように深いため息をつきます。首をゴキゴキと鳴らし、眉間をグリグリと押さえ、机に突っ伏してしまいました。


「なんかお前と話しとると勉強なんぞどうでもよくなってくるわ……」
「そうですか?……あ、昨日、『モエ』について調べてみましたよ! しかしこれといって収穫はありませんでした……。せめてどういう漢字を書くのかわかればいいのですが……」
「暇人だな……。今の今まで『モエ』なんぞ忘れとったわ」
「でも気になるじゃないですか。国語辞典、古語辞典、和英辞典、和仏辞典も見てみたのですが……、もうサッパリ。お手上げです。次の部活のときに先輩に聞いてみるしかなさそうです」
「ワフツ? なんじゃそら」
「フランス語の日本語から引く辞書です。兄さんが大学の仏文科なので」
「フツブン?」
「フランス文学です」
「どっちの兄だ?」
「兼続兄さんのほうです」


 兄さんの名前を聞くと、政宗さんは体中の酸素を搾り出したような深いため息をつきます。そしてまた眉間をグリグリと押さえました。政宗さんはこの眉間を押さえるのがもはや癖なのです。


「……あっちか。ギーギーうるさいほうの。あっちはこんなイタイケな中学生のわしを目の敵にするから苦手じゃ」
「兄さんも政宗さんのことを苦手に思っているようです……。政宗さんはこんなに優しいのに、どうしてでしょうか。兄さんもとてもおもしろくて優しいのに……」
「わっ、わしが優しい? 寝言は寝てから言え!」
「寝言じゃないので起きているあいだに言いますよ」
「ならば貴様の目は腐っとるんじゃ! わしが優しいだって……! 信じられん」


 私が『優しい』と言うと政宗さんは必ず『信じられん!』と怒ります。たしかに怒りっぽいというか、よく怒鳴りますが決してイジワルというわけではありません。しかし本人が自分を『優しくない』と言っているのですからおかしな話です。政宗さんは自分を『優しい』と見られるのが嫌なようです。それがどうしてなのかわかりませんが、優しいという事実は事実なのでなんとも言いようがありません。政宗さんがそう思い込んでいるせいか、普段の言動は少し乱暴です。しかし、それでも隠し切れない優しさが私に伝わってくるので、本当はとても優しい人なんだと政宗さんに言います。それが迷惑であろうと、政宗さんを知る多くの人が『それは気のせいだ』と言っても、少なくとも私に対しては優しいのです。

 それからしばらくは「信じられん」「理解できん」などと呟いていた政宗さんは、やがて諦め、理科の教科書を取り出して裸子植物の名前を覚え始めました。イチョウが裸子植物だってことを覚えておけば充分だと思うのですが。







09/07