「ただいまー!」


 政宗さんに延々と“カッコ”付の計算を伝授され、すっかり茹でタコになってしまった頭は、家に帰るころには冷め切っていました。
 −6+(−9)って、足せばいいのか引けばいいのかよくわかりません。こういう場合はプラスよりもマイナスが強いらしく、プラスは撤退し、−6−9で、答えは−15になるようです。プラスは正の数、マイナスは負の数と言うのに、正が負けてしまうなんて妙なものです。しかしそういうルールだそうで、覚えるしかないと言われてしまいました。
 二階に上がり、自分の部屋に荷物を放り出し、ロンTと短パンにパッパッと着替え、すぐに一階のリビングへ向かいます。まだ夕方の五時過ぎですが父さんがいるようです。そういえば、今日は仕事がお休みだと言っていました。


「おかえりー、幸村。今日の夕飯、あててみ?」
「えっと……、ギョウザですかね?」
「あったりー。これぞ男の手料理だぜ!」


 それから鼻歌交じりにフライパンを熱しはじめたので、邪魔にならないようリビングでテレビを見ることにしました。この時間帯はやはりニュースが多く、あまり興味もわかないのでぼんやりと眺めていました。兄さんはニュースが好きみたいで、よくテレビや新聞、インターネットを使っていろいろなニュースを中学生の私にもわかりやすく教えてくれます。しかし一人で見るとやはりおもしろさがわかりません。政治については、アナウンサーがなにを言っているのかがさっぱりですし、殺人事件についても同じニュースを毎日のように報道しているようです。
 少し前にコイヘルペスという名前の暴走族が事故を起こしたという話を兄さんに聞きました。その話をしながら兄さんは笑いをかみ殺せない様子で、本当におかしくてたまらなかったようです。初めに聞いたときはどうして兄さんがそんなにおかしがっているのかわかりませんでしたが、コイヘルペスという言葉を調べたら、鯉がただれ、死んでしまうウイルスのことらしいです。


『俺たちに近寄るな! 近寄ったら感染して死ぬぜ!……というノリなのだろうか……くっ……』


 普段、コイヘルペスと名乗り、ブイブイ言わせている姿を想像し兄さんはテーブルをバンバン叩き、笑っていました。
 こういう風に、なにがおもしろいのかわかればニュースも悪くないのですが、やはり一人で見ていてもちっともおもしろくありません。兄さんがおもしろがっていれば、私も何がおもしろいのか調べる気になります。

 はやく兄さんたちが帰ってくればいいのにな、と思い始めた丁度そのとき、ドアが開く音が響き、「ただいま……」というダルそうな声と「帰ったぞー!」という陽気な声が聞こえてきました。父さんはフライパンに油を引き、餃子を焼き始めているので気付いていないようです(音がすごい)。続いて二階へ上がっていく二人分の足音が聞こえ、部屋のドアを開ける音が聞こえ、なにやら動いているような音が聞こえてきます。天井の電気が少しだけ揺れます。古い家なので誰かが二階で歩き回ると振動で電気がカチカチカチ、と音を上げるのです。
 テレビのニュースが芸能ニュースになり、知らない人と知らない人が結婚するらしいという報道を眺めていると階段をバタバタと走り降りてくる音が聞こえてきました。いつもならもっと静かなのに、なんで今日はあんなに慌てているのでしょう?


「幸村ッ! また制服を脱ぎっぱなしにして! シワになるだろう!」


 血相を変えて叫ぶから何事かと思ったら、私が制服を放置したことでした。いつも口を酸っぱくして言われているのですが、どうしても忘れてしまいます。兄さんはきちんと整理整頓していないと落ち着かないタイプなので、部屋はとても片付いています。


「あ、すみません……、今直しに行ってきます」
「もういい、私がハンガーに掛けておいた」
「兼続、あまり幸村を怒るな」


 小兄さんは整理整頓が苦手なずぼらなタイプなのですが、最近の部屋はとても片付いています。少し前までは未開のジャングルとまで父さんに呼ばれていたのですが。そういう過去があるせいか、小兄さんはとても私に対し寛容です。
 話が聞こえていたのか、父さんは大きな声で笑っています。


「しかし三成、こういうことはしっかりと小さいときから身につけておかないと、お前みたいになる」
「俺は散らかったら片付けるのだ。それにいちいち片付けていたらレポート一つ完成させるのにも時間がかかるだろう」
「それはお前に義が足りないからだ。義の心があれば……」
「意味がわからんな」
「話は最後まで聞け!」


 『義』について語らせたら最後、兄さんは延々と喋ってしまうので小兄さんはいつもこうして途中で遮ります。そのたびに兄さんは怒るのですが、最後には必ず父さんの鉄拳が待っています。

ゴン


「いっ……」


 大声で口論を始めようとした二人のつむじに、父さんの大きな拳が垂直に落ちました。小兄さんはそれほど身長は高くないのですが、兄さんは高身長です。しかしその兄さんよりもずっと大きい父さんの拳はとても強烈です。私もたまに悪さをするとやられるのですが、もう二度と悪いことはしないと心に誓えるほど、痛いです。
 とても痛そうに頭を押さえ、しゃがみ込んでしまった二人を父さんはニコニコと眺めています。


「お前ら……、もう夕方だ。近所迷惑を考えな」
「ゲンコツ不義!」
「あーはいはい。今日の夕飯はギョウザと、ツナと野菜のゴタゴタ炒めだが、文句は?」
「俺の夕飯は?」


 小兄さんは目を細め、唇をとがらせて言います。小兄さんは肉類や加熱したものが苦手で、生野菜ばかり食べています。肉類は生理的に受け付けないそうですが、加熱したものは猫舌だから食べたくないそうです(このことを恥ずかしがって、口にはしないのですが)。


「三成も同じものを食え」
「……いやだ」
「我が家の家訓!」
「三点倒立を二十秒持続させた場合、その主張を通すことが出来る! さあ三成、見事三点倒立を成功させるのだ」
「ふっ……、生まれてこのかた十九年……、三点倒立など毎日のようにさせられていたわ!」


 自信満々に言い切った小兄さんは、手と頭を地べたにつき、足をふわりと持ち上げ見事三点倒立の形にします。そこで私がカウントを取り、父さんは腕組みをして見守っています。兄さんはというと小兄さんの邪魔をしたいのか、周りを歩き回っています。好き嫌いの多い小兄さんはこうしていつも三点倒立をしています。最近では二十秒も余裕なのか涼しげな顔をしていて、なんだかカッコいいです。
 十秒あたりに差し掛かったところで、兄さんが怪しげな笑みを浮かべました。いったいなにをする気なのでしょうか。


「三成のー、初恋はー、わったしー!」
「そうなんですかっ?!」
「ぶっ」


 兄さんの衝撃の告白に驚き、思わず大声で聞き返してしまいました。どうやら小兄さんも驚いたようで、ツバを噴き出し、バランスを崩してそのまま倒れてしまいました。


「さ、夕飯だな」


 満足そうに父さんが頷き、小兄さんは不承不承にテーブルにつきました。
 小兄さんの初恋が兄さん……、知らなかったです。いつの頃の話でしょうか。







09/07
(『小兄さん』は『ちいにいさん』と読んでみたい)