「ただいま……」


 部活が終わってから、いつもならまっすぐ家に帰ります。しかし今日はそうしませんでした。
 プールの水は私の葛藤を洗い落としてはくれませんでした。だから図書館でずっと、意味もなく時間をつぶして帰ってきました。それでもなんの解決にもならず、むしろ泥沼のように深く考え込んでいってしまい、無駄でした。


「ん、幸村か。遅かったな」
「小兄さん……」


 ちょうどお風呂上りらしい小兄さんが、バスタオルを腰に巻きつけたまま出てきます。それはいつものことのはずなのに、今日の私は「いつも」と同じではありませんでした。
 一気に頭に血が上って目の前が真っ暗になります。湯気の立つ肌や、水の滴る髪ばかりに目がいって、まるでいやらしい人間である自分が、そこに立っていました。


「こら三成! またそんなカッコで! はやく戻れ!」
「うるさいな……。幸村の出迎えをしただけだ」
「そんなカッコで出迎えて、風邪を引くぞ!」
「あー、はいはい、わかったわかった」


 風呂場から兄さんの声がします。そういえば、よく二人は一緒に風呂に入っています。もちろん、兄さんも小兄さんもお互いに裸を見ても、私みたいになにがなんだかわからなくなるようなことは無いと思います。
 わたしはおかしい。
 どうして、実の兄にこれほど心がかき乱されるのかわからない。女の子が相手なら……、まだ自分がいやらしい人間だと思える(しかし、実の兄!)。

 居たたまれずに私は階段を駆け上がり、自分の部屋へ走りこみました。荷物を放り出して、制服のままベッドへ飛び込みます。この動悸は階段を駆け上がったせい、走ったせいです(だから、私は、悪くない!……)。
 わからないことばかりに、涙が出てきそうです。

 私は大人なのですか? 子供なのですか? こんな悩み自体が子供?……ならば、この体はなんですか? 大人のように体は欲に従順なのに。体と心がまったく繋がらない、バラバラです。大人になりたいと思っていたはずなのに、どうして怖がっている?……小兄さんを見て、心を乱されるから?

 頭の中がぐちゃぐちゃに絡まりあっている。

 同じようなことしか考えられません。毎回毎回、道を変えては同じ問いに帰ってくる。
 結局、私は「どうしたい」のかわかりません。
 大人になりたい? 子供のままでいたい? 島さんになりたい? 何も知らないままでいたい? それを知りたい? それは当然のことだと誰かに言われたい?
 どれもその通りのような気がするし、どれも的外れのような気もする。
 大人になりたいと思ったことも事実。ですが、こうして大人になろうとしている自分の体に怯える私も事実。矛盾していても、どちらも本当のこと。


「幸村、入るぞ」


 小兄さんの声がします。私は布団の中に入り込んで、寝たフリをします。今、小兄さんを見たとき、私がどんな感情を持つのか知りたくありません。


「……? どうした、幸村」


 心配そうな声。

 この、胸が締め付けられるような気持ちはなんでしょうか。小兄さんに対する罪悪感? それとも、これが恋だっていうのか!(違う!)
 ……大好きな小兄さんのあれを覗き見した挙句に、あの結論、そしてそれを黙っているずるい私。それを小兄さんが許すでしょうか。兄さんも小兄さんも、道理に合わないこと(不義)が大嫌いです。私も、嫌いだったはずです。それなのに、私は、小兄さんを騙している。


「具合が悪いのか? さっきも少し様子がおかしかったようだし……、テストの点が悪かったのか? あまり気にするものでもないぞ。熱でも測るか?」


 布団をめくる(それはパンドラの箱?)小兄さん。
 濡れた髪、シャンプーの香り、ボディーソープの香り、暖かそうな肌色、汗ばんでいる首筋、まっすぐに覗き込んでくる首筋、桜のような色の頬、薄くあいている唇。


「なにを泣いて……」
「さっ、触らないでくださ……!」


 伸びてくる手をはたいてしまいました。
 それは私を心配していたからこそ差し伸べられた救いの手のはずだった。けれど、みっともなく自分に怯え、嫌だと思っても反応する体に、きめ細かいほどの絶望を見て取った。自らその手を拒んだ。
 呆気に取られた小兄さんの表情が体全体に刻み付けられました。ほんの一瞬、表情に影を落として、「すまなかった」と一つ囁いて部屋から出て行ってしまいます。

 いっそう泣きたくなりました。

 私は、小兄さんが大好きなのに!(それは兄弟として、一人の尊敬すべき人間として)この私の、下劣ささえなければ、ただ弟でいられたというのに! 明日本当に、ロンギヌスの槍が降ればいい!(グングニルでもかまわない!)

 何も考えたくありません。
 でも考えなくてはならないのです。どれほど後回しにしても、絶対に考えなくてはならないことなのです。きっと、私という人間が成長するのに必要不可欠なこと。他の人から「そんなことはない」と言われようとも、私自身がここに立ち止まってしまう。ここでずっと、ずっと歩けないまま、立ち尽くしていることになる。だから、考えなくてはならない。
 ……大人になる私。子供のままの私。
 一時でも実の兄に欲情するということ。それを明確に認識するということ。それを自制できないということ。

 ……。


「幸村、入るぞ?」


 兄さんの声です。小兄さんからなにかを聞いたのでしょう。私の態度は、あからさまにおかしすぎた。


「どうかしたか?」


 兄さんに背を向けたまま、体を丸くして背で言葉を聞きます。その態度に兄さんはきっと困った顔をして、そこに立ち尽くしているでしょう。
 今はかまわないでほしい。私は、見えないなにかに怯えている。それは私にしか存在を認識できない。私しか解決できる人もいない。


「黙っていたらわからないよ。それともそんなに言いたくないことかね?」
「……はい」


 小さく頷く声と、近寄る足音。それに気付き私は体を固くした。けれどそれはたまごの殻です。きっと簡単に、割れてしまう。
 兄さんは私の頭側に腰をかけます。ベッドが少し沈み、頭の中が妙に圧迫します。ああ、これではなにも考えられない。そんなに見られたら、自分の醜い姿が現れてしまいそうです。


「言いたくないのなら言うことはない。だがな、三成にはちゃんと謝るんだよ」
「……はい」
「ああ、私はお前の笑顔が好きなのだがな。泣いている顔も愛らしいが、笑顔のほうが愛らしい」


 その言葉に私は飛び起きました。驚いた兄さんの表情と会い、なぜかその激情が後ろから押してくるような感覚。


「私の、ことなんか、知らない……くせに……、知らないのに……、どうしてそんなことを、言うのですか……!」
「……幸村だって、私や三成のことが考えていることなどわからないだろう。それはおあいこだろう。相手が自分のことなど知らないと考えるのは当然だが、自分もまた、相手のことを知らないと思わなくては」


 こんなことは言いたくなかった。だけど、感情のままに口をついて出てしまった言葉。それを兄さんは、低く、ゆっくりと私に言い聞かせる。
 それは当然のことでした。ですが、どうしても忘れがちになってしまうことです。特に今の私のように、自分のことしか見えていないとき、誰もがそこを見失ってしまっています。


「……この間、島さんが来た日の晩、私は小兄さんの部屋を見てしまいました」







09/07