……。
「おはよう幸村。どうしたんだ、朝から洗濯機なんて回して」
「いえ……、昨日のうちにやるのを忘れていたので」
「んー……、昨日の当番は三成か……。あいつ、島さんが来たからって忘れよって……」
嘘をついてしまいました。小兄さんはちゃんと洗濯物は昨日のうちに片付けていました。
このことを告げるのは、とても恥ずかしいです。軽蔑されるかもしれません。小兄さんと島さんがしていたことを見て、わけのわからないままに寝ていたら下着が汚れていたなんて、とんでもないです。兄さんにはともかく、小兄さんや島さんにどんな顔をすればいいのかわかりません。私はなんて、弟甲斐のない弟なのでしょうか。いやらしい人間です。……自分が気持ち悪い。
回る洗濯機を眺めていたら昨晩のことを思い出してしまい、慌ててそれをかき消しました。思い出したらまた、わけがわからなくなってしまいそうです。
「おーい、みいーつなりー」
「にっ、兄さん!」
兄さんは小兄さんの名を呼びながら二階へ上がっていきます。私はそれを慌てて追いかけ、階段を上りきったところで足が鉛のように重たくなってしまったことに気付きます(もし、もし二人がそれとわかるような格好で眠っていたら! はやく兄さんを止めなくては!)。
「みっつーなり!」
「……なんだ、朝からうるさいやつめ」
兄さんの陽気な声と、小兄さんの気だるげな声が聞こえてきます(小兄さんは低血圧なのです。だから、特別なことではありません。特別なことでは、ない)。
「さっさと服を着ないか。まだまだ朝は冷えるのだから」
「いーえいーえ、人肌が一番です」
「こらっ、布団をめくるな! 幸村も起きているのだろう!」
「なになに。見られて困ることをするほうが悪い」
……そう。知らなかったのは私だけ。知らなかったのは私が子供だったから。それは悪いことなのか逆のことなのか私にはわかりません。私が感じたのは漠然とした罪悪感と、ひとりぼっちのような寂しさ。私はまだ中学生だから、子供だから、なにも知らないから。
怖い。
私という人間が、体が、何か別のものになってしまうような気がする。どうしてそんなことを感じるのかはわかりません。今までになかったことを初めて経験して、そんな錯覚に囚われているのかもしれません。……ですが、たとえそれが、誰もが通る道であろうと、私は怖い。
「あー……、眠い。眠い眠い」
「ならもっと早く寝ればいいだろう」
「左近に言ってくれ。……あー、眠い。……ん、おはよう幸村。どうした?」
「あ……、いえ……」
シャツに袖を通し、ジーパンをはいた小兄さんが私の目の前にやってきます。ここをどかなくてはならない。そうしなければ小兄さんはリビングへいけない。けれど、足が動かない。
きっと見られたくなかったであろう場面を見てしまったことを、それに対して私は不埒な結論を出してしまったことを、本当のことをありのままに口にして謝れないことを、謝りたい(ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい)。
「どうしたのだ?」
「ああ、それは三成が昨日洗濯物の当番をすっぽかしてだなあ……」
「はあ? 俺はちゃんとやったぞ。俺が今まですっぽかしたことなど無いだろう」
「え?……おかしいなあ」
嘘をついてごめんなさい。
私は、小兄さんや兄さんが私を軽蔑することを恐れて本当のことを言えません。嫌われたくありません(こうして嘘をつくことのほうがよっぽど嫌悪の対象になるとしても、私は)。
その場から逃げ出したい気持ちで体中がいっぱいになり、その場から駆け出そうとしました(逃げるなんて、本意ではないのに)。
「幸村ッ」
私の後ろが階段なんてことを忘れて、私は駆け出そうとしていました。在るべき床はなく、ほんの一瞬のうちに『死ぬかもしれない』とまで考えました。こういうときに、アニメや映画ではスローモーションになります。演出のうちの一つだと思っていたのですが、本当に、すべてがスローモーションに感じました。この瞬間のうちに人は走馬灯というものを見るのかもしれません。
壁に腕をぶつけたのでしょうか。妙な感触がします。痛みではない暖かさ。
「こんのっ、バカ!」
「……あ、れ」
「俺の寿命を縮めて楽しいのかお前は! ケガをしていないのだったらさっさと立て!」
小兄さんに腕をつかまれ、階段に大きなしりもちをついてしまいました。それだけですんだことがまるで嘘のようです。まさか死ぬまではいかなくとも、一階までゴロゴロ転がる雪玉になるのは最低ラインだと思っていました。
慌てて立ち上がると、少し腰と足首が痛みましたが骨折という事態もまぬがれているようです。一気に安心し、またその場へ座り込んでしまいました。
「おーい、幸村ー? ケガはないのか?」
「どうしたんですかい、そんな大きな音出して」
「幸村が階段から投身しかけたから引っ張っただけだ。まったく、寝ぼけるのはいいのだが、下手したら大ケガをだな、していたかもしれんのだ。寝ぼけるなとは言わない。だがもう少し冷静にな……」
「やあやあ三成、大事無かったのだからよいではないか。あまりしつこいと幸村がかわいそうだ」
「……おーい……。あー、だめだ、完全に目がイっちゃってますね」
「なに、打ち所が悪かったのか?」
「いやあ、驚いているだけでしょう。ほーら、それっ」
パン、と乾いた音がします。
どうやら島さんが私の目の前で手を叩いたようです。そのとき、少し呆然としてしまっていたことにようやく気付き、また私は無事だということを再確認します。階段から落ちかけただけで大袈裟かもしれません。けれど、とても安心しました。
「すっ、すみません……。ありがとうございます」
「気にするな。だが、ぼんやりするのは階段から離れたときにしろ」
「はい……、すみません」
小兄さんが鋭い目つきで私に注意し、兄さんが「まあまあ」と私が気にしすぎないように気を遣ってくれました。
今のことですっかり忘れてしまっていたのですが、やはり小兄さんの顔を見ると思い出してしまいます。まっすぐと顔を見れず、小兄さんの癖毛をぼんやりと眺めるのが精一杯でした。
階段から落ちそうになったとき、この妙な罪悪感や恐怖が落ちてくれればよかったのに!
09/07