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「おい幸村、聞いとったのか?」
「……え、あ、すみません。もう一度お願いします」
「はあ……、わしがこれほど身を粉にして説明したっちゅうに貴様は」
「すみません、もう一度お願いします」


 鼻から勢いよく空気を吸い込み、口からこれみよがしに大きなため息をつく政宗さん。とても面倒くさがっているのでしょうけれど、こうして細かく説明してくれているので、根は優しい人なのだとわかります。
 しかし何度説明されようが私にはきっと理解なんてできません。数学なんて、五割引が半額であることを知っていれば充分だと思います。


「――というわけで、-6の絶対値は6になる」
「どうしてですか?」


 政宗さんをおちょくるつもりなどなくて、素直に、心の底からわからなかったのでなるべく気に障らないようにそう聞いたのですが、言い方の問題ではなくやはり気に障らなかったようです。
 眉根をピクピクと痙攣させ、握っていた鉛筆を鈍い音を立てて真っ二つにしてしまい、大きな口を開けて私に言いました。


「だから説明を聞けっちゅうに!」
「はあ」
「絶対値っちゅうのは数字から符号を取ったもののこと! 符号っちゅんは、-6のマイナス! -6からマイナスを取ったら6! これが絶対値!」
「あっ、わかりました。つまり、正の数にすればいいんですね」
「……まあ、そんなとこでもよい」


 どうやら間違ったことを言っていなかったようで、政宗さんの血圧を上げずにすみました(なんだか、怒鳴っていると血圧が上がりそうなイメージがあります)。
 私はこのように勉強――特に理数系――はとんと苦手なもので、飲み込みの遅さから政宗さんをカッカッとさせてしまいます。
 政宗さん自身はオールマイティになんでもこなしてしまうので、それが少し羨ましく思います。しかしそれも良いことばかりではないようで、同級生にちょっとしたヒンシュクを買ってしまっていると聞きました。私は政宗さんのことを妬んだことなどありません。


「幸村、お前、この調子でテストは平気か? 中学校に入って一発目のテストだぞ。……わしの知ったことじゃないがな」
「でも心配してくださっているから、こうして勉強見てくださるんですよね。ありがとうございます」
「なっ……、わしはただ自分の復習も兼ねてやっとるだけだ! 勘違いをすな!」


 好意に対し、素直にお礼を申し上げただけなのに、政宗さんはこうやってツンツンと怒ってしまう。これは小学校の頃からで、中学に入ってもあまり変わらない。
 もしかして私は嫌われているのか、と兄さんに相談したこともありましたけれど、兄さんは笑って「それは『ツンデレ』というのだよ」と言うだけでした。『ツンデレ』なるものが一体なんなのかよくわかりませんが、嫌われているというわけではないようなので良しとします。


「あははっ、それより政宗さんは部活はどちらに決めました?」
「ん……? ああ、部活か。アマチュア無線部」
「アマチュア無線……ですか」


 これまたマイナーかつ、人口が少なそうな部活です。そんな部活があったことすら私は知りませんでした。
 でも、アマチュア無線部って普段、なにをしているのでしょうか? やっぱり、ラジオのチューニングを合わせるようなことを地道にし続ける部活なのでしょうか。……政宗さんに、少し似合いそうだと思いました。


「すぐに信じるなボケが! アマチュア無線部なぞこの学校には無い!」
「あ、嘘だったんですか。すごくあっさり言うものですからつい……」
「わしは落研じゃ」
「オチケン?……オチケンサンバ~……?」
「それは暴れん坊将軍じゃ。落語研究部、略して落研」
「オチなんて言葉ないですよ。やっぱりサンバですよ。オ・レ!」
「……はあ」
「いや、本気にしないでくださいね。私だってちゃんと落語の落の字が『落ちる』って読むからオチケンなんだ、ってわかってますから!」


 ちょっと嘘をつかれたから、仕返しに私も嘘をつき返してみたのですが予想外にも本気に取られてしまったので慌てて弁解することになってしまいました。私は、本気でそんなことを言うようなアホの子だと思われているのでしょうか……。とても心外です。
 たしかに勉強はあまり得意ではありませんが、まったく理解できないというわけではありません。そこそこ、人並みにはできます。多分。


「……で? お前はなんの部活に入ったと?」
「私は水泳部です」
「……似合わん。いやそもそもお前、カナヅチではなかったか? 小学生のときビート板使っとるお前を散々引っ張りまわして泣かせた記憶がある」


 苦い思い出です。
 水泳なんて練習したこともなく、海に行っても心配性な兄さんがあまり自由にさせてくれずに、結局泳げないまま成長してしまったのです。それをおもしろがった政宗さんが、ビート板にしがみつく私をプール中を引きずりまわしたものでした。とにかく怖くて無我夢中になり、政宗さんに『貴様、末代まで祟ってやるぞ!』なんて叫んだものです。


「だから水泳部なんですよ! 泳げない人間は入れないのかな、と思って覗きに行って、いろいろ先輩方とお話したら、ぜひ入ってくれって言われまして……。なんか、私がビート板使っているのがモエってものらしいです」
「モエ? なんじゃそりゃ」
「わからないですけど……、先輩方が『幸村くんモエ!』って叫んでいました」
「水泳部、ワケがわからんぞ」


 政宗さんにもわからない言葉があるらしいです。先輩方と同じ年になれば勉強する言葉なのでしょうか? それだったら兄さんに聞いてみることにします。兄さんはとっくに中学も高校も卒業しているから、きっと知っているでしょう(そうしたら政宗さんにも教えなくては)。
 今はテスト期間中で部活動はできないのですが、はやくテストが終わり、部活が再開するのが待ち遠しいです。泳げないのですが、先輩方が優しく指導してくださるので、ちっとも怖くありません。それにこの学校は室内プールなので、あまり水も冷たくないのです。


「はい、復習だ。-12を絶対値にしろ」
「12!」
「よし。次は加法減法じゃ」
「うわ、なんですかそれ」
「足し算と引き算のことだ」
「それくらいは出来ますよ。ばかにしないでください」
「……はあ。カッコ付の計算は?」
「それってスーパーで買い物するときに必要ですか?」
「……はあ」


 また大きなため息をつき、政宗さんは眉間をぐりぐりとほぐしています。右目の眼帯が少しずれてしまい、それを慌てて直し、紙に“カッコ”がついた計算式を書き始めました。
 こんなものが出来て、どう満足すればいいのでしょう?





09/07