赴くままの子羊
「どうしたのじゃ、眉間の皺が平素より当社比四割三分増しじゃぞ」
「ふん、ほっとけ」
学校に到着するまでが大変だった。なにしろ家を出たのが三十二分、原付きに跨がってからも兼続はどこからかついてくる。六十キロ出しているというのに、あいつは平気な顔をして俺と並列走行してくる。気が散って危うく信号無視するところだった。
そして今、ガラシャの後ろでヤツはフヨフヨ飛んで、楽しそうにしている(頭が痛い)。
「しかしのう、そちは入れ物だけが取り柄のような男ではないか。その入れ物くらいは大事にしたほうが良いと思うぞ」
「うるさい」
「にゅふふーんっ、やーい、顔だけ男ーっ」
「……潰すっ」
「にゃーっ」
学校は嫌いではないが、学校の女どもは嫌いだ。特にこのふたりは、なにかにつけて俺を『顔だけが取り柄の性格破綻』と決めつけてくる。
一体どっちが性格破綻だ。俺がどうにも女が苦手なのは、母さんとこのふたりが原因に違いない。
「にゃーにゃー! 稲ちんタチケテーっ、暴漢に襲われるぅー」
特にこのくのいちという女、言動も行動も全て俺をおちょくっているとしか思えん。ガラシャはまだ、分別がある。しかしこの女にはそれがない。
そしてくのいちは必ず、稲姫という女の背中に逃げ込むのだ。俺と稲姫は犬猿の仲である。
「女性を追い回すなど、とても見苦しいです」
「お前には関係ない」
「関係ない訳ありません。彼女は私を頼ってきたのですから」
稲姫の背後からくのいちが顔を出して、楽しそうに笑っている。
この稲姫という女は、いつも訳知り顔で平気な顔して首を突っ込んでくる、言わば委員長タイプの正義漢だ。そしてファザコンとしても有名だ。
「詮無きこと……」
教室の隅で、カツンカツンとけんだまをして、冷ややかにつぶやくのは織田だ。なんでも家庭の事情が複雑で、すっかり内気なひとになってしまったらしい。しかしこれは人事ではない。織田の両親に、俺の両親が昔に世話になったという。未だ親交は続いている。
カラリ、と音を立ててけんだまの玉が床に転がった。
「詮無きこと……詮無きこと……詮無きこと……」
少しノイローゼの傾向があるらしい。
そこで担任が教室に入ってきたので、俺は席についた。そういえば兼続がいないが……、まあいないに越したことはない。
*
昨日の今日で、普通に学校に行って授業を受けているなんて、まるで奇妙なことだ。俺はまだ夢を見ているのだろうか、いや、逆か? これが現実で、なにもない、普通だった生活が夢なのか?……ばかばかしい。蝴蝶の夢じゃあるまいし。
ともかく、今はバージェス動物群を頭にいれるのだ。……うう、深海魚系は嫌いだ。お前は自分の顔を見たことがあるのか?
「三成、お前は本当に勤勉だな」
「お前……、帰ったのではなかったのか。いなくなったからせいせいしていたというのに」
いつのまにか姿を消していた兼続が、ぬっと下から姿を現した。
昼休みのこの時間、のんびりと屋上で過ごしていたというのに。バージェス動物群とそれから『歯痒い』についても考えようと思っていたのに。神とは本当に気まぐれで、ひとをおちょくっている。
「なにをっ……と、こんな雑談をしている暇はなかった」
「帰るのか?」
「違う、不義だ!」
「は」
「不義が現れたのだ!」
「今は学校だからだめだ。放課後なら」
「だからこの学び舎に不義が現れたのだ!」
不義というものは、なんの前触れもなく唐突に現れるのではなく、実はそこらじゅうに蔓延していて、俺はそれに気付いていなかったのではないだろうか。
「三成、変身するぞよっ!」
あれ、なんだったっけ。ピカリ……ピカチュウ……ピタゴラス……。覚えたてのバージェス動物群を、忘れてしまった!
「さア、合言葉を!」
兼続がやってきたせいだ。しかし、元を辿れば不義のせいだ。不義がいけないんだ。
「みんな……死ねばいいのにっ!」
俺の苦労を返すのだ!
「ひとの最も強い原動力は、物理的な話をすればタンパク質かもしれない。それは肉体を働かせるのに必要不可欠であろう。しかし、心を動かすものはタンパク質ではない。いや、心のタンパク質とでも言おう。それは怒りの感情だ。ひとは怒らずにはいられない。怒りはひとを盲目にさせる。怒りはひとつの病だ。誰もがこれに罹患している。これは、ひとに爆発的な行動力を与え、盲目的な力を発揮させる。怒りを殺した人間は、虚無しかない。怒りはひとの魅力の一端すら担っているのだ! さあ三成、不義を討とう!」
07/25