異化された世界
「たらーたらったーらたーらー」
「えーいっ」
慶次がひとりで歌いながらバッドを振り回し始めたかと思ったら、幸村が大きくふりかぶり、手に持っていたらしいボールを慶次に向かって投げる。
どちらかといえば俺は飲み込みは早いほうだし、小難しいこともだいたいは理解してしまう。だが、こればかりは理解できそうになかった。つまり、慶次と幸村が突然現れて、野球ごっこをしている、という単純な話のはずなのに、理解できない。傾奇者って本当にわからない。
左近も兼続も同じようで、ぽかん、としている。そうだ、ぽかん。
慶次は、まるで俺たちまで風が届きそうなスウィングを披露する。そして、カキン、といい音を伸ばしてボールが飛んだ。ものすごいスピードを出していたが、俺にはスローモーションに見えた。
そこにボールが“ある”ということはどういうことだ? 本当にそこに“ある”のか? ハイデッガーすら断念したそんな問いが頭をかけめぐる。俺にはそこに“ある”ことをどう証明したらいいのかわからない。
「わ、殿」
左近の、『ついていけない』というオーラがひしひしと感じる言葉が耳に届く。そうだ、ボールが残念なことに俺の脳天に直撃した。しかし、全く痛みを感じない。ここが意志と表象の世界であるからだろうか。現実ではないから、痛くない?
「もう失くすんじゃねえぞ、『俺』を」
「『俺』を?」
あいつは『俺』がなくなったとでも思っているのだろうか。ばかばかしい。『俺』は常に『俺』を持ち続けた。だからこそ神を批判した。『俺』を認めない神を愚弄だと罵った。だからこそ愛しもしないし愛されもしない。愛し愛される相互作用など働く理由がない。
この体は基本的に『俺』のものだ。だから『三成』には『俺』の体の支配権はない。
回帰――『俺』は帰ってきた(なぜ野球にしたかは、慶次とかいうやつが傾奇者とやらだからだろう)。
「さアて、兼続。ここでジョーカーの登場だ」
「慶次、か。誰ぞの台詞を借りるのならば、『詮無きこと』だ」
「はっは! 言ってくれるねえ。で、“お前は”どういう目的意識を持って行動したんだ?」
「意味はないな。確かに意味はない。不義も義もない」
「腐ってるねえ」
隣に左近という男がいる。『三成』の意識は『俺』の中にはない。
……うむ。推測するに、慶次の場外ホームラン級の球が俺の額にぶつかったとき、『俺』が入ったと同時に、ビリヤードの要領で吹き飛ばされたのだろうか。……なんと非常識な(貧血を起こしそうになった)。
「兼続殿、これではまるで悪役じゃないですか。やはり私にはわかりません。というかこちらを見てください。いつまでも『愛』ばかり見せていないで」
「いや……やはり合わせる顔がない」
「後ろめたいことがあるからだろ?」
「……つまりこれは、フェルマーの大定理だ」
フェルマーの大定理。フェルマーの大定理自体は数学的な証明にほかならない。少し三平方の定理に似ている。この場合脈絡から考えて、フェルマーの大定理の歴史のことを言っているのだろう。フェルマーは本を読みながらその余白に思いつきを書き残すという習慣があったという。この大定理はフェルマー自身「すばらしい発見をした。この余白にはその証明を書ききれない」とだけ記され、それは長きに渡って誰もが証明できずにいた。しかし近年、ようやくその大定理が証明されたという話だが。
つまり、語り始めたら止まらないということなのだな、兼続(この男はよく喋るたちだということは最初から予感していた)。そしていくら悪循環を続けようと、必ず答えにはありつくと。
「ひとの心を証明する手立てなどありはしない。結局言葉は心の贋作にすぎない」
誰がなにを言おうとも、俺の言葉すら、俺にとっても贋作にしかない。今、こうして綴っている言葉も、贋作だ。
ひとは言葉の中に真実を見出そうとする。しかしあまりに抽象的な心という存在を言葉にするなど、実際に可能なのか? 不可能ではないか? たとえば、陳腐な恋愛小説なんかでは「愛しているなんて言葉では物足りない」というような一節をよく見かける。それは「物足りない」のではなく、「それに相応した言葉など最初から存在しない」、もっと広義的に見れば「言葉にできない」ということだ。感情を言葉にすることで、感情は価値を貶める。おおよそは理解できても、奥底まではわからない。
言葉は記号だ。
麻薬だ。
しかし、言葉は無限にループする。
言葉でしか心を表現する術がない。心は表現しきれない。表現の限界が存在する。
07/26