深海魚よりもグロテスクになる環境
ひとには、善玉菌と悪玉菌があるという。俺の知識にそんなものは存在しないから『俺』の知識だろう。善玉菌は名の通り、体に良い働きをする。ついでに悪玉菌を抑えこむ力があるらしい。兼続の体は今、悪玉菌に支配されているのだろう。
「かーねーつーぐーくーん」
兼続を捜し歩き始めて、数える気も失せるほどの時間が経った。左近は隣であくびを噛み締め、とろとろとついてくる。
左近とはいつもどおりすぐに会えたのだが、兼続が見つからない。やはり失敗なのだろうか。
そう諦めかけたところで、前方でぼんやりと腑抜けのように座っている愛の字を見つけた。わかりやすいやつでよかった。
「兼続」
「……ん? あ、ああ、三成か。どうした」
兼続は振り返らないまま、上の空といったように呟いた。話すときはひとの顔を見ろと言ったのはお前ではなかったか。
「おい、どこを見ている」
「いやー、お前に合わす顔がなくてな」
「今さら?」
「ああ、手遅れだからな。いっそう合わせられない。義の力が不義に破れたのは二度目だ」
「……と、言うと、あなたは直江殿の義の部分だ、って?」
「うむ。本当に合わせる顔がない」
左近が信じられない、と言った顔でため息をつく。今さら非現実を受け入れられないなどまだまだだな。俺は覚悟をしていたからそれほど驚かなかった。
「情況を説明してほしいな」
「うむ。それくらいはしないと本当、顔だけでなく背中を合わせられない。――私の不義と義が二律背反をおこしてしまってね。長い冷戦だった」
「ベルリンの壁は崩壊したか?」
「うむ。先日の碁、なかなか効いたぞ。ベルリンの壁は崩壊したが、結局それは形だけだから、本格的な修復はもう少しかかりそうだ」
「ベルリンの壁?」
左近の現代の知識は、犬時代のものを基礎にしている。ベルリンの壁がわからないのもしかたないことなのかもしれない。しかし今このタイミングで質問するとは、相当悔しいのだろうな。
……長い冷戦とな。どれほどやつは義と不義のジレンマがあったのか。
「それで? 結局なにが黒幕として働いていたのだ」
「知りたいか?」
「ベルリンの壁って?」
「知りたくないわけがないだろう。あの世でのんびりしていたところをいきなり呼び戻してきやがって。俺はこれでも怒っているのだぞ」
「ベルリンの壁って?」
「そうか。ま、簡単な話だ。寂しかったのだよ」
「それが黒幕か? ばかにしているのか?」
「ベルリンの」
「後で説明するから黙ってくれ」
「……」
寂しかっただと?……ばかにしているとしか思えないな。
そのためだけにこれほどの舞台を作り上げ、そのうえで誰も彼もが道化として踊り狂っていたと?
だいいち、お前は謙信公を追って毘沙門天のほうへ行ったのではないか。寂しいと思うことがあるのか?
「三成はやはり三成だな。少しひとの感情に疎い」
「いいや、俺でなくともそう思うな。その感情のためだけにこんな大げさなことをするとは思えない」
「直江殿、本当に『意味』はあったのですか?」
「……意味?」
ベルリンの壁事件ですっかり拗ねたかと思っていた左近が、スッと口を出してきた。その問いはまるで、全ての労力を水泡に帰すような、悪循環の入り口への一言だった。
そんなことがあってはいけない。物事にはすべて『原因』があり『結果』がある。そう、『俺』は知識として持っているではないか。だめだ、兼続。肯定してはいけない。笑ってはいけない。口を歪めてはいけない!
「……すべてのことには『原因』と『結果』がある。カントの宇宙論的証明だな。しかし、カント自身は無神論者だ。カントの神の存在証明はその瞬間、全てが嘘であり、無意味になる。いや、最初から意味はなかった」
「俺は『結果』を知りたいのではない。『理由』と『意味』を知りたいのだ」
「……ふ、ないな! すべて無意味! 意味のあることなど、実はまったくないのだ」
「ニヒリズムか?」
「違うな」
そんな、世間を騒がせた殺人犯の言い訳みたいなもの、望んでいない。明確な意味がなければ、俺は納得できない。
兼続がこうなった『原因』はどこにある? それを遡っていくと、やはり根本原因は神なのだ。
そのとき、パッと辺りが明るくなった。どうやら背後から光が差しているらしい。振り返ると、そこにひとがふたり立っている。ただ逆行となっているためか、顔は見えない。
「そうだ! 意味のあることなんて少ねえぜ! 俺だって意味もなく戦いたくなったり、傾いたりしたくなるからなア!」
「私も、意味もなく兼続殿を張り倒したくなります」
光の当たり方が変わった。ふたりの背後から差していた光が、いつのまにかふたりの頭上から照らすようになっている。ふたりは見知った顔だった。紛れもなく、慶次と幸村だ。
慶次はなぜか、白装束でもなければ生前の格好でもない。そうだ、現代の、野球選手とかいうやつの格好だ。脈絡がわからない。幸村も合わせているのか似たような格好だ。
「……え、ちょ、どーいうことですかね?」
左近は困惑しているらしい。俺もだ。同志と呼ばせてもらおう。
07/26