異臭に気づいた犬は手遅れだったと云う
大事件が起こった。俺にはシリアスは許されないという思いをいっそう強くさせるような事件だ(俺にはネタ神が憑いている)。どうしてだ。俺が俺でなくなりかけているというのに、なぜシリアスを許してくれないのだ。
(ところで俺は、あのとき悪質なテーマのすり替えをしていた)
あの晦冥の後、皆勤賞を目指すからには早退するわけにもいかない。そんな思いでズルズルと自分の席に根をはっていた。途中、俺を「そち」という女や人を食った喋り方の女がつっかかってきたがそれどころではない。そち女のペットらしい巨大生命体に潰されたがやはり問題ではない。まるで上にいる、いまやいまやと首を伸ばして判決を待つ死人のように、時間が長く感じられた。その時間もようやく終わり、帰路についた。信号無視をしかけるところだった。道中の記憶もあいまいにようやく家についた。いつもなら喜んで出迎える愛犬がいないことに気付かなかったのは、それすらも俺の中ではあいまいな存在だったのだろう。なんとなくチワワだったことは思い出せるのに、名前が思い出せない。冷静に考えると、やはりそら恐ろしい。部屋に戻り、兼続の姿を捜そうとするが、捜すまでもなかった。押し入れの中から楽しげな会話が聞こえてきたからだ。おそらく幸村とだろう、と考えるのと同時に、俺にいったいなにをしたんだ、という抑えきれない衝動に襲われ、感情のまま襖を引いた。
そして事件は起こっていた。
「なんだその男は」
押し入れの中には、兼続と幸村の他にもうひとり、知らない男がいた。見るところ俺よりもずいぶん年上のおっさんだ。顔付きは今流行りのちょい悪オヤジ風で、頬に傷があり、もみあげが異様にあごまで侵食している。
またお上関係か、と腹立たしい気持ちでいっぱいになった。俺の部屋の押し入れは駆け込み寺か!
「三成! ニワトリが左近だったのだ!」
意味がわからない。ニワトリなんてどこで拾ってきたのだ。サコンってなんだ、その男のことか。
「なんの因果か……、島殿が三成殿の愛犬チワワになっていたなんて……」
シマドノ?
幸村の殿は敬称だからシマだ。シマが苗字で名がサコン。名前っぽいな。
「わふっ」
「……うむ。しばらく犬として過ごしたせいか、ひとの言葉は喋らないな」
「ま、まて。俺の愛犬がその男だと? 俺のチワワはもっと……思い出せんが普通の、華奢で、目がくりくりしてて……声なんかキャンキャン高くて……」
「わふっ」
その元愛犬は俺の姿を見つけるとそれは嬉しそうに飛びついてきた。シマサコンは俺よりもガタイがいい上に、おっさんだ(そりゃ、犬は人間よりも短命だから老けるのも早いらしいが)。支えきれなくて床に倒れこんだ。
「きゃっ、ハレンチ! 幸村は見ちゃいかんぞ」
「えー」
「おっ、おいおっさん!」
「わア、顔を舐めてる。ダイタンだ。やっぱり幸村にはまだ早いな」
「えー」
行動はまあ、犬そのものだ。しかし、やはり、少し、……いや、なんだ? あまり怖いとは思わない。それよりもひどい恐怖に気付いているせいだろうか。俺の心は死に掛けている? 兼続の言う、『不義を討てば思い出す』とはむしろ、こう解釈すればいいのだろうか。
『不義を討てばミツナリの記憶が戻ってきて、お前の記憶はなくなる』
つまり、不義を討てば討つほど、俺は『俺』を忘れていく。そして最後、『俺』はミツナリに喰い殺される。ぞっとしない話だ。
そうすると兼続の奇妙な行動にも説明がつく。あれを不義とすれば、俺は不義を討つ。俺がどれほど問いただしてもあれは不義だとしか言わない。頑なに上へ向かおうとしないのは、はやく俺の記憶を葬り、ミツナリの記憶をいれるため(あるいはその強制力がなくなるため、ここに居ざるをえない)。初めはあからさまなひと違いに見せかけ、変身だとかなんだとか目くらましをして、意味深な言葉を吐く。『不義を討てばすべてがわかる』たしかにその通りだ。幸村はそれを快く思っていないのだろうか。兼続をたしなめようとして阻まれている姿は、それを言いたかったのではないだろうか。兼続は俺にその計画を知られてはならない。そうだ、誰だって唯一の存在である『自分』を失うのは怖い。
だが俺は気付いた。自分ほどあいまいで確証の持てない存在はない。
侵食する忘却。
そうだ、最初に兼続は遠まわしに暗示していた。『ひとは忘却を最も得意とする生き物だ』と。あいつが本当に神ならばそんなことはたやすい。
ほんの少し前までは、恐怖で体がひきつっていたのに、それすらもあいまいになる。じわじわと侵食する。
俺が最後に忘れる存在はなんだ。『俺』だ。なにを忘れたかはよくわからないが、兼続との会話は異様に鮮明に覚えている。
もしかしたら、不義を討つたびに『俺』の存在は希薄になり、代わりにミツナリがじわじわと俺を巣食っているのではないだろうか。
今、このことを考えているのが『俺』であるという保障はない。
――考えてもしかたのないことなのだ。もう後戻りもできない。すべてが手遅れだ。……そうだ、兼続が最初に、手遅れと言った。あのときにもう、俺は、こうなる未来が確定されていたのだ。不確定性未来……、未来は決まっている、神がいる限り、神の自由に、きままに。俺が選んだはずなのに、俺が自分で真実を知ろうとしたはずなのに、それすらも選ばされていた(これは都合のいい責任転嫁か?)。
絶望すら存在しない。
俺はどうやって、『俺』を維持したらいい? そういえば、誰も『俺』の名前を呼ばない。父さんも母さんも、クラスメイトも『俺』の名前を呼ばない。『俺』の名前は、いったい、なんだったか。『三成』だったか。いや、名前など商標だ。つまり、個体を識別するためのものだ。
多分俺は三成なのだろう。きっと、これは三成の長い夢のなかなのだ。前世だとかなんだとか、ばかげている。こんなオチ『俺』は許さない。
「わふっ」
「むう、左近、待て」
『俺』は存在している。たしかに存在している。
『俺』が『俺』を忘れたら、誰が『俺』を覚えているというのだ。誰もが、『俺』のことになど興味はない。だから『俺』は忘れてはいけない。
「三成、左近のことは覚えているか?」
「……」
ノーコメント。黙秘権を行使しよう。
「島殿、島殿……、えーと、ニワトリ!」
「わふっ」
「いい子ですねえ。人間になったのですし、人間の言葉も喋れそうですよね?」
「ふむ……そうだな。しかし……、島殿、おぬし、もしや、わざと犬のままでいるのでは?」
「……ばうっ」
「そんなことなさそうですよ」
「しかし今、明らかに悪意のある顔だったが……」
「元からじゃないですか」
そうだ、『俺』は元から、いなかったのかもしれない。
07/26