水没過程





土日はいい。ゴロゴロしていられるから幸せだ。いつの間にか部屋にやってきたトリニワも俺のベッドの隣でゴロゴロしている。ペットは飼い主に似るというが、まさにその通りだ。
この間の兼続との長い問答で俺はすっかり腑抜けきった。あれに頭を使いすぎたのか、今はしばらくなにも考えたくない。無論、義不義の定義などもってのほかだ。それに俺の考えることなど、ただの高校生が考える程度のことだ。ロゴス的な証明なら、きっと誰かがすでに証明しているだろう。
他人には、事態を楽観視しすぎていると思われるだろう。しかし手を出しても足を出しても、なにひとつ掠りやしない。無駄に脳を消費してどうするというのだ。思い出すだけなのだろう。そのあと、それを踏まえてどうするかどうかは『俺』が決断することだ。
それと、俺が腑抜けている理由は他にもある。単純に体がつかれきっている。連日現れる不義たちに舌を巻く思いだ。やつらは本当に多様な姿をして現れる。このあいだの郵便局での不義は、なんだかトンチがきいていておもしろかった。動きがおぼつかず、まるで老齢のひとを見ているようだったのだ。兼続曰く「さすが、国営と民営の狭間に揺れただけ、意志は弱いものと見える」だ。俺は珍しく笑ってしまった。
他にも近頃、どこぞのミスで年金をもらえるかもらえないか、という不安が氾濫している。そういった不義の塊が近所の年金相談窓口に出たものだから赴いたのだが、兼続曰く「あいつは自らの姿を消すことができるぞ! なんて言ったって消えた年金疑惑だからな! 不義を闇に葬り去ろうとしたツケだ」なんていうもんだから、やはりおかしかった。ちなみに、父さんは国民年金ではなく厚生年金だから心配はない(母さんの年金については不安もあるが、特にそういう連絡はきていない)。
不謹慎だが、不義も捉えようによっては、ひとの不安や不満、時勢をよく表していてそれはそれでおもしろい。
体が疲れている理由は、連日働きづめであるということと、学校だ。以前ならばたいしたこともなかったのだが、最近、ガラシャに巨大コダラックマというパトロンがついたせいで俺は散々だ(あれ以来、巨大コダラックマは学校の名物となり、地域新聞やらが撮影にくるようになった。結局不義は大人の利益になる!)。校門に立ちふさがって俺を中にいれてくれなかったり、ガラシャの思いつきで高い高いをされたり。吐く。ふとガラシャの発言に疑問を感じて「それはどうなのか?」と問い詰めたら、あやつ、問答無用で俺を潰した。

兼続は「やはり不義は討つべし」と常々言うが、ガラシャがあれほど気に入っているコダラックマを討つなど、俺にはできん。ここで勘違いしてもらったら俺の名誉にかかわるから注意してほしい。俺は別にガラシャが好きとかそういうことを言っているのではない。ただ、ガラシャはひどい二面性で、怒ると手がつけられないというか、なにもかも、この世のつじつまの合わないこと証明できないこと不条理なこと理不尽なことはすべて俺のせいだとして三日三晩のルールなしのサバイバルに持ち込んでまうのだ(最終的に、ポアンカレ予想や準完全数が存在するかどうかやホッジ予想が証明できないのは俺のせいにされてしまった)。……正直俺は恐ろしい。
だからいくら「俺は知らない俺はやっていない」と言ったところで、ガラシャにとってはポアンカレ予想のように証明できるものではない、とりあえず俺が悪いのだ、ということになる。兼続はこれを知らないからああやって簡単に言えるのだ。

……不義を倒すと……、いや、やめよう。だめだ、考えてはいけない。
俺はもはや、『考えられない』情況から『考えたくない』情況へと転身している。考えてはいけないのだ。

「トリニワ」

寝転がったままトリニワを呼ぶ。もちろんなにも知らないトリニワは、身軽にベッドに上り、無垢な大きな目でくりくりと俺を覗き込んでくる。四つの大きな目はたしかに俺を映している。しかしそれは本当に『俺』なのだろうか。
『俺』は『俺』の顔を見ることは一生できない。鏡が歪曲しているかいないかなど誰が証明できようか。もしかして俺は『俺』ではなく本当に『ミツナリ』そのもので……、いや、だめだ。考えてはいけない。
ひとは常に、考えられずにはいられない。

「むう、くすぐったいぞトリニワ」

寝転がっているところに犬がやってくると、なぜか服の中に入ってこようとする習性がある。他の家の犬はどうだかよく知らないが、トリニワはそうだ。しまいには穴をほるように、そこをガリガリと引っかいてくるからたまったものではない。

「む、ニワトリはなにをしているのだ?」
「俺が寝ているといつも腹に入ってこようとするのだ。くすぐったくてかなわん」
「あれか? 母乳を飲んでいたときを思い出すのではないかね。まあ三成からは絞ったって出ないがな!」
「……」

出たら困る。
服をめくるのは諦めたのか、トリニワは俺の腹を枕に二匹仲良く大人しくしはじめる。

「……しかしこのニワトリ……、どこかで見たことがあるような気もするのだが」
「チワワだからな、今や時の犬だ。飼っているひとも多いだろう」
「うーむ。そうかそうか。なら、そういうことにしといてやろう」
「?」

なにか含みのある言葉を残して、神は散歩に出た。
兼続はふとしたときにいつも姿を消す。俺はそれを『散歩』と呼んでいる。本当に散歩の日もあるらしいが、『所用』で出かける日もあれば、不義を探す旅という日もある。
ともかく神とは(ある意味で)人知を超えている。
そういえば、俺は本当に兼続のことをよく知らない。あまり上のことを人間に話すことはできない、と本人も言っていたし意図的なものなのだろう。それにあいつは、むしろおしゃべりの部類に入ると思う。
俺が知っている兼続のことといえば、神としての名がシャンペンハウエルとかいう『ショーペンハウアー』の悪辣なパロディであることと、和名が直江兼続ということで、ミツナリという人間に固執しているということくらいだ。この和名というのが、日本人であったときの名前なのだろう。まあ調べたところで見つかるとも思えん。
まあ俺は今、ひたすら惰眠をむさぼるにかぎる。腑抜けと笑うがいい。ははっ。

「三成殿、三成殿」

……トリニワが喋った? そうか、夢だろうな。そういえばいつから目を閉じているんだったか。

「三成殿、寝てらっしゃるのですか……?」

ああ、俺をミツナリと呼ぶのは兼続くらいだ。兼続が帰ってきたのか。随分急な声変わりをしたものだ。

「……起きてる……」

嘘だ。半分寝ている。

「よかったです三成殿! お久しぶりです」
「久しぶり?」

なんだか嫌な予感がしたので、俺はうっすらとまぶたを持ち上げる。
そこには、兼続ではない知らない男が笑顔で俺を覗き込んでいた。短い髪の毛、つんつんと横に跳ねる髪、優男タイプの兼続よりもすこしたくましい男だ。目つきは鋭いのだが、雰囲気は正反対にやわらかい。そのせいかあまりおっかない印象はない。
腹ではトリニワが不思議そうにその男のほうを見ている。

「改めて、お会いできて嬉しいです!」

俺の部屋は不法侵入者がよくやってくるらしい。





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