愛あふるるパラドックス
これは現実だ。単純なことである。寓話やおとぎ話の世界の話がそのまま通用するわけがない。いくら不義の具現化した存在が非現実的だとはいえ、許される非現実とそうでない非現実がある。
ヒントは多分にある。兼続の言った、『ロゴス』と『ミュトス』だ。俺が無駄知識マニアであり、なおかつ学校の授業で倫理を選択していなければ知りえなかった言葉だ。兼続は当然のように使った言葉だが、こんなの、よっぽどその分野に興味のある人間である限り知りうる言葉ではない(まあアイツは簡単に説明をくわえていたが)。俺とて、勉強熱心でなければ覚えてなんかいない。
まず目の前でなにやら、もぞもぞと形を変えるという不吉な動きを見せている『ミュトス』だが、兼続の言ったとおり空想の象徴だ。空想とは物語。『ロゴス』は論理や理性。つまり、『ミュトス』はどこまでも主観的な存在であり、『ロゴス』は客観的な存在なのだ。『神話』と『科学』、この関係のようなものだ。
教科書に、『物語る言葉』と『論証する言葉』というフレーズがあって、いやに頭に残っていたのを思い出す。
そうとわかれば、解決の糸口はいくらでも探し出せよう。あくまで主観的な物語に、客観的“ちゃちゃ”をいれるのだ。簡単なことだ。
「貴様は己の面を見たことがあるのか!」
俺はことあるごとにこの台詞を吐く。自分の顔に自信があるのかないのか、と聞かれれば、まあ、人並み以上かなとは思う。いや、人並み以上だ。違いない。それよりも俺は、容姿というものは最低限気を遣う必要のあるものだと考える。
ひとの印象というもののほとんどは第一印象で決まる。そして第一印象の半数以上の割合を示すのが容姿だ。どれだけ口では「顔じゃない、心だ」などと言っても、それは単なる欺瞞だ。
「いいや、面だけではない。その容貌すべての醜きこと! これがほんとうに、美談であったはずのおとぎ話の姿か、悲しくはないのか!」
無反応。
失敗か? 冷や汗が頬を伝い、本格的な焦燥が背を突き抜ける。もしや、不義に人間の言葉は通じないのだろうか。だとしたら、俺は、不義語を使うしかないというのか! どんな言語だいったい!
しかしその不安も取り越し苦労に終わった。俺が頭を抱えて不義語(と思われるあべこべな言葉)を呟いているうちに、不義はいつのまにか縮んでいったのか、俺が見たときにはバスケットボールほどの大きさになり、次第に消えていった。
不義を倒すことは難しくはない。ただ、頭を使っただけだ。
「この世で最も醜きは、不義の心だ」
しかし世の中に『絶対』という言葉ほど信用できないものはない。いつのまにか、もしかしたら俺の価値観すらも、義と不義が反転したものではないと断言できる要素はない。それがいつの時代に反転してしまったとか、どういう理由で、などということはまったく考えたことはない。ただ漠然と、義と不義は表裏一体で、いつでも簡単に裏返ることは可能なのだと、さまざまな視点を持ってみれば、義は不義にもなりうるし、不義も義となることが可能なのだ。
「三成、よくやった」
「神サマとやらはあまり役に立たないな」
「そんなことを言うでない。これもお前のためだ」
「また『思い出す』か」
扇を放り返し、トリニワのリードを受け取って二匹を抱き上げる。ぷるぷると小刻みに震え、それがやはり愛らしい。もう散歩はお開きだ。
帰路につきはじめ、ようやく肩の力が抜けてきた。俺はなんの因果で、こんな、海の水をバケツで掬い上げるようなことをしているのだろうか。
「兼続、それで、俺にどういう『真実』を教えるっていうんだ」
ドアノブを引き、家の中に入る。靴を脱いで、すぐにリビングへ向かい、トリニワをフローリングに下ろしてやった。父さんはソファで新聞を読み、母さんはキッチンで夕食のしたくをしている。
テーブルの上に置いてあるブラシを手に取り、まずトリの体をブラッシングする。これは力加減が難しい。強ければトリが痛がるだろうし、弱ければブラッシングする意味がない。
「うむ……。私はお前がなにを知りたいのか、わかるがわからない。おおよその想像はつくがそれが見当違いではないという確証もない。だから問答法にしよう」
「神のくせに、融通が利かないのだな」
「あら? なにか言ったかい?」
ミュトスロゴスの関係で、問答法と聞いてソクラテスを連想した。今でも幅広く、それこそマンガやアニメでも親しまれている。
「いいえ、なにも」
ニワのブラッシングを終えたところで、俺はそうそうに自室に引き上げた。
あれほど見たこともない姿の『不義』と一戦交えたというのに特に動揺もしていないし、いたって心は平穏だ。いや、なにも今回に限ったことではない。最初から、特別に慌ててはいなかった。恐怖もなかった。
「さて、なにが知りたいかね。いや、私は一種の嬉しさを感じている。三成は興味を持ってくれたのだから」
逆さの顔が映る。神は普段から浮いているせいか、よく九十度回転したり、百八十度回転して現れる。その状態にも慣れてしまった俺は、特別驚くこともせず、頭の中を整理する。
一番に知りたいことはなにか。そう考えるとあれもこれもと出てくるが、最も根強い疑問を探し当てる。
「『不義を倒せば思い出す』と、言っていたが、つまり、俺にはミツナリの記憶がないということか? お前の口ぶりでは、俺はそもそもミツナリという人間であるということのようだが」
これがさまざまな疑問の発端である。俺がミツナリである? とならば、なぜ『不義』を討つ必要がある? 『不義』を討って俺はなにを思い出す? どうして『不義』を討つと俺は記憶を取り戻す?
「そうだ。それは不義を討つことにより思い出すしくみだ」
「それだ、それがわからない」
「というと」
「俺にミツナリの記憶がどうというのは……、まあ、ありがちな前世だとかそういう話だという目安はつけている。それならば、『神』という存在が出てきてしまった以上信じない理由も特にない。だが納得できぬのは『不義を討つ』という設定だ。ミツナリの記憶を思い出すのに、なぜ『不義』という存在を討つ必要があるのだ。『不義』が俺の記憶を持っている? どうして? いいや、むしろあれは“本当に”『不義』なのか? 『不義』とはなんなのだ。お前に都合のいい話ばかりだ。これがお前のパラドックスだ」
「ふむ、パラドックスとな。それは簡単に説明がつく。お前はこちらの事情を知らないんだものな、まさかそういうことにパラドックスを感じるとは思わなんだ。仮定すら与えていないのだからしかたないが。だが、この件に関しては上のことだ。人間であるお前には言えない。ただ、そのパラドックスはパラドックスではない」
「説明になっていないな。それがふるいに落とされた真実か」
「さア、次の問答を始めよう」
07/26