油を注すように流し込んだアニリン
「これは……、こんなことがあっていいのだろうか……、くそっ、想定外だ」
兼続が珍しく(と、言っても会って二日も経っていないが)忌々しげに顔をゆがめてことの成り行きを思い出しているようだ。兼続はこの世の不義をよほど根絶したいらしい。あのコダラックマを討つことができなかったことが相当くやしいらしく、さきほどからこの様子だ。
すっかり制服に戻ることができた俺は、やはり煮え切らないような思いでその姿を見ていた。放課後になり、ひとの姿もすっかり少なくなり、今はもうガラシャやくのいち、よく俺をからかう女どもばかりが残っていた。
だいたい説明しなくても予想がつくだろうが、あのコダラックマ型不義というものはやはり他人に害をくわえない、食欲が旺盛なだけのケダモノだった。多分、あれは男子学生の不義というものが中心に構成された、ただの年頃のケダモノなのだろう。ガラシャにちやほやされて悪い気はしなかったようだ。それにこども特有の、認めてもらえれば素直になる、という特性もある。
それからその不義が浄化されたかというと、そうでもない。今は校門でガラシャの帰りを健気に待っている。どうやら、ガラシャは不義を手懐けたらしい。
ガラシャはあのコダラックマのことをどう思っているのか想像もつかないが、きっとカラクリとはもう思っていないだろう。もはや、あれは生命体だ。
ちなみにガラシャから聞いたコダラックマのサイズだが(どうやら測定したらしい)、高さは五メートル、体重は二百キロ近くというものらしい。潰されてはひとたまりもない。いったいどうやってそれを飼う気かは知らないが、ガラシャの家は金持ちだから問題もなさそうだ。
「好き勝手しおって……、忌々しい」
「もうそこまで言わなくてもいいだろう。不義は不義でも、愛らしいものではないか」
「お前は事情を知らないからっ!」
「事情? なんだそれは。第一、知らないもなにも、教えないのはお前だろう」
兼続がなにに苛立っているのかは知らないが、そういう決め付けというのは最も腹立たしい。
なにも知らないという理由でなにも説明しない。まるで悪循環ではないか。むしろ俺はいい迷惑だ。なぜこういう、はた迷惑なことばかり提起してくるのだ、この男は。神とはどこまでも自分本位だ。
「……説明できぬ。すまない」
「別に」
結局これだ。さっさと帰ろう。
荷物をまとめ、教室を出た。すれ違ったときにくのいちとひと悶着あったが、どうせいつものことだ。
兼続は黙り込んでしまって、雰囲気がどんどんと重いものになっていく。特に、校門でコダラックマの横を通り過ぎたときはクライマックスだった。
どういう理由でこいつはこれほどに憤っているのだろうか。たしかに、不義は討つべきなのかもしれない。だが、確かに不義であろうと、あんなあどけないものすら憎悪の対象としているのだろうか。
ひとは潔癖すぎると、生きることが不可能になる。潔癖では解決できないことが、多すぎるのだ。たしかにそれはおかしいことだが、ひとの歴史から見ても、けして不義をすべて邪とみなすのは正しいことではない(言っていることが矛盾しているが、あそこらへんの汚職事件などは、よい影響を与えない)。
たとえば、戦国時代にあった関ヶ原の戦いなども、いい例だろう。石田三成(……ミツナリ? まさか)は正義を貫いたという話をちらほらと見かけるが、まったくの自己満足に等しいものではないだろいうか。豊臣を守りたいという心意気はまったく、開いた口が塞がらないほど敬意を表するに値するが、やはり自己欺瞞の一端としか思えない。まあ、歴史上の人物の解釈など、誰が正しいわけでもないから、結局は憶測の域をでない。
石田三成は己の義というものを貫いたし、筋の通った人間だったのだ。しかし現実は徳川家康が勝利した。徳川家康は、豊臣視点から見れば専横はするわ禁止事項を平気で破るわで、不義以外のなにものでもないだろうが、事実、徳川は二百年以上も続いた、長い世になった。それは、いくらでも問題はあっただろうし悶着もあっただろう。だが事実に変わりはない。
つまり、不義すべてを糾弾するには、日本の歴史を批難すること始まる必要がある(そもそも徳川家康を不義とする人間には、歴史小説で有名な司馬ナンタラの影響が強いのだと聞いたことがある)。
もっと古いところでは、キリスト教の旧約聖書に出てくる、アベルとカインの話なんかも、通用するのではないだろうか。俺の家は真言宗で聖書は有名な話しか知らないのだが、この、人類史上初と言われる『嘘』と『殺人』。これは忌むべきものであるという解釈ではあるが、話を聞くと少しおもしろい不義がでてきたのだ。
しかしこれは少し本筋からずれる話だからやめておこう(俺の悪い癖だ)。
そういえば、途中、妙な不安がよぎったのだが、なんであったか。思い出せない。横道に反れては本題を見失うこの悪癖、どうにかしたいものだ。
考えているうちに『そういえば、コレといえば』といった具合にどんどん違う話に思考が持っていかれる。本人は楽しいのだが、聞いている人間にはもどかしいばかりだろう。
「三成、どうした?」
すっかり調子を元に戻した兼続は、相変わらず俺をミツナリと呼びながら覗き込んでくる。
「いや……、潔癖とは諸刃の剣だな。他人の不義を許すこともできないし、自分の不義も許せない。いつか自分に殺されてしまいそうだ」
「まるで、自分は不義の徒だと言いたげだな」
「不義とまでは行かなくとも、義ではない」
「いいや、お前はたしかに義の徒である」
「わからんな。ひとは俺がひとである限り、簡単にカテゴライズできるものではない。ああ、お前は神だったか。まあ、カテゴライズできるものではない。ひとは義と不義のふたつの側面を持っているものだろう?」
「いや私ももとは人間だったのだが……。まあいい。義と不義の共棲? まさかそんな、義と不義は水と油だ。けして交わらない」
「いいや、ひとは義と不義を内に宿した精神的な両生類だ」
「両生類? 変な喩えだな」
「……兼続、お前は、へんなやつだ」
「お前のほうがよっぽど変だ」
しかし、改めて考えると、義も不義も、どちらも曖昧なものだ。結局、ひとによって認識が違うのだから、意見の押し付け合いになってしまう。
少し保留することにしよう。
07/26