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 日は丁度てっぺんに昇り一切衆生を照らす。一羽のカラスが両腕を広げ、わずかに体を傾けて旋回する。それからまた一羽カラスが現れ、連れ立ってどこかへ行ってしまう。
 大木の葉が影となり、左近と青年が腰を下ろしている場所は嫌にひんやりとしている。影となっている場所の土は湿り、湧くような冷涼さを孕んでいる。照っている日のせいか、どこか暖かい。小春日和となったのだろう。
 けれど左近の手は土の冷ややかさも日の暖かさもさほど感じられなかった。一晩中凍えるような寒さの中でむき出しにしておいたせいか、未だ感覚が戻りきらないようだ。
 その手の不自由さも厭わず、左近は自分の膝を見つめている。烏羽色の布にところどころ泥と血がこびり付いている。戦働きに自信を持ち、自分を稀に見る戦術家であると自負していた彼は、今の自分の姿を情けなく思った。雨に濡れていたならば自分を濡れ鼠と称しただろう。それほど自分をみすぼらしく、また惨めに思っていた。

「魂が抜けたような面をして。生きているのか?」

 今の左近ならふと事切れてもおかしくないと思ったのか、青年は訝しげに左近の顔を覗き込む。青年の姿などちっとも目に入っていないようだが、左近は確かに瞬きをし、呼吸を繰り返している。無心になろうと努めているようにも、必死に思案を重ねているようにも見える。
 木に止まっていたらしいカラスが、突然、耳を劈くような鳴き声とともに飛び立った。葉の重なり合う音と、羽が風を切る音に、左近は顔を上げた。そして青年を真正面から見据え、

「お前は、俺を見透かしていたのか?」

 と、弱々しく言った。
 左近の問いを不思議に思ったのか、青年は首を傾げながらも答える。

「人間は他人がなにを考えているか想像する。その上で他の大名を籠絡するということが成り立つ。こうして人の形を取り、思考し、会話している。同じことができない道理がない」

 当然のように青年は言うが、左近は目から鱗が落ちるようだった。
 もはや青年の言い分は承知し、受け入れているようなものだったが人間と同じような生き物という意識は持ちがたかった。自分で思考するということは人間とすれば当然のことだが、いざ物体の霊というものが同じように思考するのかと聞かれると答えに窮する。だが一度そういうものと認識すると納得する部分が多い。青年は左近を気に入らないと称したし、家康の天下は定まったも同然との見解も見せた。人間の姿をしているものだから見落としていたが、確かに青年は自分の言葉を持っていた。
 青年の答えがすとんと胸に落ちた左近は、なるほど、とだけ呟く。

「お前は憎しみに目が曇って、自分の心を見ようとはしなかった。だから俺がなにもかも見透かしたように見えるだろうが、いたって簡単な作業だ」

 事も無げに青年は言ったが、左近にとってはようやく胸のつかえが取れた、重大なことだった。
 散々に言葉を尽くして彼の心境を表したが、結局嘘も誠も話の手管ということにしかならなかったのだ。転換を続ける人の心を、また、自身ですら模糊としているそれを探ろうと躍起になっているものを、うまく言葉で指摘できるはずがなかった。
 けれど、今の左近の心境はまさに憑き物が落ちたにふさわしい。
 青年の苦労が報われたことになる。刀の立場としての意見を述べたり、三成の人柄を思い出しながらの憶測を口にし、時勢を語ったりと手を変え品を変え言葉を尽くした。それを経てようやく左近の霧を晴らすに至った。

「そうか……、そうか。歩くことをやめてしまった。俺はもう歩けないだろう」
「人間は歩き続けることはできないのだろう。休んだならばその分、また歩けばいい」

 青年と左近の主題の次元が同じものとは限らなかった。だが、それでもお互いに十分だと思った。
 たった二晩余、二人はほとんど離れずに共に歩いた。その間に交わした会話は微々たるものでしかない。確かに左近が忠誠を誓い、生涯を失おうとも共にあろうとした三成との間柄には及ばない。けれども、また別の次元での関係を二人はこの短い時間の間に築いた。
 青年に対する嫌悪はもはや消え失せた。ただ、憎まれ口を叩きながらも己を正道へ引き戻してくれた青年を、三成とは違う意味で愛していた。

「あんた……、そういや、名前を知らない。名前はなんだ」
「さあ、知らないな。名前などないよ」
「そりゃもったいない。お前ほど気持ちのいい霊が宿る刀に名前が無いなんてな。ああ、俺がつけていなかったのか。名前をつけてやりたいところだが、今すぐには思い浮かばない。一度眠り、目が覚めたら名前をつけてやろう」
「そうか。存外、お前は趣味が良さそうだ。楽しみにしておこう」

 左近の幼い気な言葉に、青年は初めて面と向かい、笑みを唇にのせる。近江佐和山で一方的にだが出会った左近が戻ったかのようである。丁寧に刀の手入れをし、三成に向かい穏やかに笑いかける左近を青年は好きだった。これほど快い人間はいない、そうとすら思ったほどだった。
 三成を失った左近は、その怨みと自責の念から自らを失った。それを憤り、悪しく言った。けれども、やはり青年は左近が好きだった。友情とも恋慕とも違う、明確な言葉を持たないものだったけれども、はっきりと自覚していた。

「ああ、楽しみにしておけ。期待に添えるかは知らないがな」
「別に、過分な期待はしない」
「そうかい。――お前には世話になったな。立派な名前をつけてやるさ」
「そろそろ寝たらどうだ。俺はお前に触れることができない。自分で暖かくするんだな」
「そうさせてもらう。お前には感謝している。目が覚めたら京へ向かうか。あそこは戦とは無縁の地だ。もう紅葉は見れないだろうが、景色も美しい」

 それだけ言い、左近は静かに息を吐き、泥のように眠りはじめた。

「……京か、悪くない」

 もう左近には届かないとわかっていながら、青年は穏やかに承諾した。そうすることが何よりだと考えてのことだった。



 およそ十四年の月日が経ち、天下はにわかに落ち着きを無くしているように見えた。家康がとうとう、事実上豊臣家を滅ぼす働きに出たのだ。
 豊臣家は牢人を募集し、豊臣家恩顧の大名に呼びかけたが誰も応えなかった。牢人の中には真田幸村や長宗我部盛親などの姿がある。真田幸村は石田三成の友と呼べる人間であった。大名間には友情という概念はほとんど無いに等しく、この貴重な友情を、否、それよりも己の義を貫かんと不退転の決意を持っていた。
 けれど、名の無い青年は大刀の切先に触れ、冷笑するだけだった。

 ――豊臣に勝ち目などない。無益な戦。誰が望んでいる。豊臣は途絶える。

 望んでいるのは明らかに幕府側だったが、豊臣方も決して怯んでいるとは言いがたい。むしろ、これを機に名を上げんとする者や、家の復興を願う者、また、再度豊臣の天下を願う者も多い。

 ――所詮、戦など無くならない。ずっと未来に、どのような規則を持ってしたとしても無くならない。人間が人間である限り。ならば、いっそあいつのように私怨であることを曝け出せばいい。余計な看板は重たいだけだ。

 切先を地に埋め、青年はあくびを一つこぼす。
 出で立ちは昔と変わらないままだった。大名の姿を真似た蒲葡の肩衣をだらしなくはためかせ、同じ色の袴から見える足は素足のままだ。容貌もまた、三成のもののままである。その姿が気に入っているのかと問われれば違うだろう。ただ、その姿でいればふと世界が元へ戻るような気がしてならなかったのだ。
 京の山奥にひっそりと佇む墓がある。その墓の傍らで、大刀を抱えたまま日ノ本を見渡し続けて十四年が経っていた。

「名前、欲しかったのだがなあ」

 ――賢い者なんていない。俺もまた、つむりが悪かった。

 刀身が折れようとも、青年は彼にはもう会うことはない。
 声に出したところで無駄なことだったが、青年はそう呟かざるをえなかった。










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