雨は止み、雲は薄く時折太陽が姿を見せていた。とはいえ気温は低く、太陽の白さが逆に寒さを思い出させる。
夢も見ぬほど深い眠りから目覚めた左近は、相変わらず大刀を抱えた裸足の青年を目に留めて息をついた。それは安堵だった。そして安堵した自分に驚き、慌てて青年から目をそらした。
しばらくは上手く働かない頭のまま、ぼんやりとそこに座っていたが、ようやく自分の無防備さに気付き、慌てて周囲の気配を窺う。洞窟で夜を明かした後は、西軍残党のいぶり出しに警戒していたものだったが今日ばかりは完全に抜け落ちていた。歩き詰めていた疲れからなのか、集中力の途切れが原因なのか。けれどそんなことはどうでもよかった。
周囲に人の気配がないと知るや、左近はにわかに落ち着き、大木に背を預けた。
朝の冷え込みは尋常ではなかった。指先を動かそうにも、少し拳を作ろうとしただけでピリリとした痛みが走る。
左近が目覚めたことに気付いた青年が、身を捩じらして左近を振り返る。
「また歩くのか」
「そう、だな。そうするしかない」
寝起きのせいか舌足らずの言葉で左近は答えた。また、頭が完全に働いていないようだ。理性もまだ夢心地なのか、本音がこぼれた。
そうだ。左近にはもはや、引き返しがつかないように思えてならなかった。
関ヶ原の役から日は流れ、主・三成は斬首された。それからもう幾日も経っている。腹を召すにも機を逃したとしか言いようが無い。ならば自分の首を東軍にみすみすくれてやるよりも、土壇場に家康へ一矢馳走してやろうという思いであった。その感情はもはや私怨に等しいものがあり、冷静に自分を見たとき、三成に合わす顔がないという隙が生じた。その隙がもはや左近の多くを侵食していることが白日の下に晒されたのだ。
それでも左近には引き返せない。明確な根拠はなかったが、今さら引き返すことはとてつもない悪、不義に思えてならないのだ。
「やりたくないことを、やってどうする。その程度の思いで、天下安寧を妨げる気か?」
「天下安寧、だと?」
「左様」
青年は気取った口ぶりで喋り始めた。妙にかしこまった答えに、左近は面食らった。
「此度、内府は一旦は豊臣秀吉が物にした天下を我が物にしようと立ち上がった。それに対抗し豊臣の天下を守らんと呼応したのがお前たちだ。結果、戦は起こった。いかに大義名分があろうと、民にとっては戦が起こることに変わりはない。内府の立ち振る舞いに首をかしげる者も民の中にはいたかもしれないが、戦が終わることのほうが重要だ。内府のように大身代の実力者であればもう内府に抗う者もなく、動乱も起こるまい。そのこと、いくらつむりが悪いお前でもわかるとは思うが」
「つまり、俺がいたずらに内府を討ってしまったら、また日ノ本は争乱の渦に悲鳴をあげると。このまま徳川の天下の下、安穏と俺に生きよとお前は言うか。殿の姿でそう申すか!」
青年の言わんとすることを察した左近は、続けて言う。しかし次第に頭に血が上ってきたのか、最後は吐き捨てるように言った。左近自身にも自分がなにをしたいのかはわからなくなっている。ただ、青年は三成の姿をしているだけの別人だとわかっていても、三成の姿で平然と家康を肯定する青年に憤りを隠せなかった。
途中まではその通り、と頷いていた青年だったが、最後の言葉は聞き捨てならなかったようだ。柳眉を逆立てて反論する。
「殿、殿、殿。お前はそればっかりだ。ばかの一つ覚えか。お前の殿は豊臣の天下を守りたかった。その殿の殿、つまり豊臣秀吉はどうであったか。たしかにできることならば豊臣の天下を万代のものにしたいとは思っていたかもしれんが、それよりもまず、安寧を求めていたのではないか? 天下惣無事の令などもあっただろう。なにより、戦のない世を望んでいたと思わないか。お前の殿と内府の戦はいざ知らず、お前の振る舞いはなんだ。天下を背負う気概もなにもない癖に、なぜいたずらに世を乱そうとする」
青年の気の勝った語調に左近は二の句を告げることができず、ただ呆然と青年の言葉を反芻する。
そして、秀吉の遺した辞世の句を思い出す。
――露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢
夢の中で夢を見ているような一生であった、落ちた露が蒸発し消えてしまい、どこに露が落ちていたかもわからない儚いものであったという秀吉の心の空虚を表している。
それが豊臣家に執着していないという証ではないのに、左近はなぜかそれを思い出した。だが、実際に豊臣の天下は夢の中の夢であるような最後だった。わずか一代の一時の夢である。家康が幕府を開き、何代も続いてゆけば本当に豊臣の天下などあったのか、白昼夢ではなかっただろうか、とすら思ってしまいそうである。
なぜか秀吉がそれを予見していたように思え、左近は背筋に冷たいものが這うような不気味さを覚えた。
「……そうだ、そう考えるのもありだろう」
「だろう」
「されど、俺は退かない。俺は俺の殿へ忠誠を尽くすだけだ。たとえ殿本人に謗られようとこの道は譲らない」
今度は青年が二の句を告げなくなる番だった。左近の言っていることは次第に明白な矛盾を曝け出し始め、青年はどこからその芽を踏み潰せばいいのかわからなくなってしまった。
左近は死霊に取り付かれたかのごとく憔悴し始めていた。顔は青白く、目の下には隈がくっきりと浮かび上がり、視線もおぼつかない。血が乾いたような色をした唇を白くなるほど噛み締めている。
死相が現れているかのような形相に青年は息を呑む。
「……されば、それも一つの道なのかもしれない。しかし懸命な判断とは言いがたい」
「保身のために生きるんじゃない。いかにその修羅場をかいくぐるかが男児の痛快事。関ヶ原では武運拙く背を向けるはめになった。今こそ殿へこの忠誠が偽りないことを示すときだ」
「さあ、それはどうだろうか。少なくともそういった形で示されることを望んでいるとは――」
「黙れ!」
左近の一喝を喰った青年は口を閉ざす。
「黙れ、黙れ! 殿のお姿でそれ以上、なにを申すか! お前は殿ではない、殿などではない! その言葉は殿のものではない、殿を知らない人間が殿の言葉など紡げるはずがない。お前は誰だ、誰なんだ。俺からこれ以上なにを奪う。殿をお守りすることも叶わず、再会果たすこともできず、ただ無様に落ち延びた俺にはもう何一つない。ただ、私怨のみが生きている。――わかっている。俺の成すことが今以上に俺を無様にする。泉下の人となられた殿に合わす顔など、とうにどこかへ置き忘れてしまった。それでも、それでもだ。俺は生きて、せめてわずかにでも俺を報わなくてはならない」
つま先すら絞りきったような掠れた声音だった。
自分がなにを言っているのかは理解していない。ただ頭に浮かんだ感情を言葉にし、羅列しているにすぎない。あまりに多くの感情に処理しきれていない様が見て取れる。
三成のためという大前提はもはや詭弁に成り下がり、むしろ自分の溜飲をすっきりと下がらせるためという本音が知れた。
もちろん左近は考えながらまくし立てた訳ではない。家康に一矢報いるという決意は三成という便利な笠に隠れていた、自己満足というものが本質にあったのだ。そのことを今になって自覚した左近は、ただ絶望した。左近は自分の発言を省みることができないほど愚かにはなれなかった。
言葉尻を捕らえようとした青年は、その虫の息とも言える左近の様子に二の足を踏んだ。うまく合致していない葛藤に滑り込んで内から瓦解させることは苦もないことだ。けれどそうしてしまったのなら、風前の灯に堪えている左近はふっと消えてしまいそうに見えた。
それからどちらも押し黙り、重々しい沈黙が地を這った。冷たい風に木々が揺られ、水滴がはたはたと落ちる。昨晩の雨が残っていたのだろう。その水滴のうちいくつかは左近の頬に突き刺さる。
「ああ……、俺は、いつ愚に返った」
「最初っから愚かだったと思うけれど。あえて言うならば、お前の大切な人間が死に、東西を失い伶丁を過剰に自覚して、それを殺したときか」
「どう生きればいい、俺は、どう生きることができる」
「……知らん。そんなことも自分で決められないような人間はさっさと泉下の客とでもなるがいい。運良ければお前の大切な人にも会えるかもしれんが」
――このような過程を踏まなくてはならない人間は面倒くさい。
青年は口の中だけでそう呟いた。
――けれど、最初からなにもかも見透かしている人間なんて、かわいくないな。
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