斜面もようやく終わりを向かえ、今は鬱蒼と茂る平地を歩いている。もう山の麓にまで降りてきたのだろう。これからしばらくは平地を歩き続けることになる。
 左近はここまで来てようやく自分の考えなしを呪った。
 家康が伏見へ向かう正確な日付を知る術を持たない。またそれが予想外に先の話であった場合、どこでどう過ごすのか。家康の動向を知るのならばなるべく城下にいるほうがいい。しかし、左近は無一文に等しい。潜伏することもなかなかにできない。
 近江佐和山へ戻るという可能性が一瞬だけ頭をよぎるが、それもまた画餅である。奸臣とされた三成の居城である。とうの昔に攻め落とされているに違いない。

「ばーか、ばーか。復讐だなんてばかなことを考えるやつはやっぱりばかだ。こんなのが持てはやされるなんて、日ノ本は間違っている」

 左近の背中に向かって、青年は可愛げのない口を叩く。それを出来る限り聞こえないふりをして、左近は思案を巡らせる。青年の言葉にいちいち反応していたら精根が枯れ果ててしまいそうなのである。
 青年は無反応の左近を首をかしげ、ぶすくれた顔で見つめる。
 もはや何を言っても左近の決意は揺らがないのだろうか。そう青年は思った。しかしそれは青年の思い違いで、決意が揺らぎ始めているからこそ左近はいかなる言葉すら耳に入れようとしないだけだ。
 左近には余裕がない。今の彼が精神衛生を保つためにはなにか一つの目印がなくてはならない。それに向かい、懸命に突き進むことで現実から目を背けることを可能にしている。もし、その目標を達成できたとしても現実という反動が大きいだけで得るものはなに一つない。むしろ、失うものが大きいという事実を左近を見ていなかった。
 低く立ち込める雲が、怪しげな音を立て始めた。続いて、身を刺すような雨が降り始めた。
 左近はなるべく葉の茂っている大きな木を探し、その根元に腰を下ろす。青年も左近に続き、不思議そうに左近と自分を見比べた。青年を視界に入れた左近は信じられないと言わんばかりに口を開け、呟いた。

「……お前、濡れていない」
「人間は水に濡れるのだな」

 青年は雨に打たれたというのに濡れていない。抱えている大刀は確かに水を滴らせている。けれど青年はこれっぽっちも水気がない。
 その事実を認めたくなかった。
 左近は頬を濡らす水を拭いながら、呆然とした。
 確かに青年が人間ではないということを認めざるを得ないものがあるように思えた。心の奥底ではそう予感してはいたものの、その心を無視しようと努めていた。その努力はほとんど無駄に終わった。左近は自分が意識している部分で青年を認めてしまった。ともすれば彼が次にすることは、青年を視界に入れないようにすることだ。

「やっと信じる気になったのか」

 青年はわずかに嬉しげに声を弾ませる。青年にとって見れば、今まで邪険に扱われていたものが少しは改善されるものと期待する気持ちが膨れ上がるのも否めない。けれど左近の取る行動は、いかに青年を自分から排斥するかということで扱いが向上するものとは到底言えなかった。

「信じるついでに、俺の言葉に耳を傾ける気はないのか? 俺がわざわざこの面をしている理由はわからないのか?」

 ――知るか。

 青年を見ることなく、左近はそう心の中で呟いた。彼にとって青年がそういった行動を取る理由は問題ではなく、青年の取った行動そのものが問題なのだ。
 葉は雨をよくしのぐ。
 間がな隙がな降り続ける雨と、頬を撫ぜる冷たい風に左近は身を震わせる。
 心に綻びが出来てしまった人間は弱い。猪突猛進に行動することに躊躇いを持ってしまう。そうすると様々な要素に目が向いてしまい、集中力が散漫になる。そういう人間を何人を見たことのある左近だったが、自分がその立場になるとどうとも割り無い。元より綻んでいたものに目を背けていただけだ。その綻びが少し早くに決定的になっただけの話ではあるのだが。
 曇天では今の時刻の目安がつかない。ただ、暗く、ひたすらに歩き続けたということからそろそろ日暮れ時なのだろう、と左近は思い、今日はここで休むことに決めた。昨日休んだ洞窟のように暖かさは微塵もないが、平地に降りた今、そのように都合のいいものが簡単に見つかるとも考えがたい。
 これからどうするか。不安しか残っていない明日を強引に蹴り飛ばして、左近は目を瞑った。
 放っとかれた青年は、目を瞑り眠ってしまうらしい左近に驚いた。
 会話が続くかと思えば自分が一方的に問いかけただけである。左近の対応に失望したが、人間とは睡眠を欠かせないものだと思い直し、昏々と眠り始める左近の顔を眺めた。
 近江佐和山で初めて目にしたときよりも、明らかに痩せこけている。髪は乱れ、頬には乾いた泥や血がこびり付いている。それに手を伸ばし、指先で拭おうとする。けれどいくら努力しても青年にはその泥が拭えない。触れることはできる。しかし、物理的に介入することができない。いたずらに左近の頬を擦るだけだった。
 諦めた青年は大木に背を預け、眠る左近を眺めるだけだった。

 ――俺はこいつが気に入らない。自分をないがしろにする人間は嫌いだ。自分を大事にできない人間は、刀だって、なんだって大事にできない。

 青年はそう考える。
 刀の霊を自称する青年だからこその意見だった。人が人に自分を大事にしろと言うときはその人自身を思い、胸が板のようになるものを感じるわけだが、青年は自分を大事にできない人間は刀すらもぞんざいに扱うものだと考えている。これが、左近を気に入らないという理由のうちの一つだった。
 思考する者の行動は、大抵一つの考えのみで動くことはない。あれこれ考えるからこそ、ひょうたんから駒が出るように多様に加えられてゆく。行動の理由を述べろと言われて簡単に説明できるものではなかった。
 そういう面で見ると左近の主・三成はそういう人間ではなかったのかもしれない。否、考えるには考えたはずだが、いの一番に豊臣家と決めてかかっている。他の可能性などは袖にすることも多かった。一に豊臣家ありきで考えるから行動もわかりやすい。また、正義感溢れる人柄で融通も利かない人間であったから、読みやすさは増す。それが多くの大名たちと一線を画していた。
 青年は大刀を持ち直し、切先で左近の陣羽織を器用に引っ掛け、左近に覆い被せる。
 自分で触れることが出来るものはほとんどない。唯一触れることができるのは大刀くらいなもので、刀の霊らしいところだ。左近に投げつけた握り飯と水の入った筒は大刀に乗せていたからこそできたことだ。
 陣羽織一枚で寒さをしのぐのは無理だとわかっていながらも、何もしないよりはいいように思えた。赤みを帯びた紫色の左近の指先を見つめ、青年はそう得心する。
 つまるところ、青年は口で言うほど左近を嫌っていないということだ。
 自分の心を見てみぬふりをしたり、自分をぞんざいに扱う振る舞いを嫌うのは左近を思っているからこそのものだ。刀や物の扱いに支障があることを難色を示すことももちろんだが、一番はそれだった。
 近江佐和山城で丁寧に刀の手入れをしていた左近と、また自分の言動を思い出した青年は、嘆息を禁じえなかった。

 ――ばっかばかしい。俺がこの面で出てきた理由が、あべこべになっている。

 自分の考えた理由が自然と違うものに摩り替わっていたことに気が付き、恥ずかしさのあまりに身悶えしそうになるのを寸でで抑える。そんなことは自分が口にしない限り他人には預かり知らぬことであることには相違ないが、それでも誰かが自分の何もかもを見透かしているように思えてしまう。
 会稽の恥をそそがんとする左近を牽制する意味だったはずの出で立ちが、今となっては自分のためのものになっている。
 左近が青年を三成に重ねてしまいそうになることはしかたのないことと割り切れるところもある。けれど、青年自身が自分を三成と重ねてしまうということは、なんとも累卵の危うきである。木乃伊取りが木乃伊になるようなものだ。
 たった一日余で、二人の心境は随分と様変わりしてしまった。これはお互いに反撥しあう奇妙な影響力が絶妙な相互関係をもたらしたという事実を如実に表している。
 青年は長い夜を眠ることなく、ただひたすらに思考し続ける。






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