「この国の人間は信心深いと聞いていたが、お前は例外のようだ」
「お前さんが、そんな面して出てくるんだからな」
「この面がお前には最も効くとわかったからな」

 筒に入った水を飲み干した左近は、しばらく斜面に体を預けたままにしていた。青年などもはや存在しないように扱っていたが、青年が唐突に口を開いたものだから左近は仕方なしに返事をする。
 効くとはどういうことか、左近はわからなかったが何も聞かなかった。
 青年もまたその説明をすることはしなかった。青年には青年の目的がある。だがそれもまた説明することはなかった。
 近江担当となり、偶然佐和山城にて刀の手入れをしている左近を見つけ、その刀に一等目をかけることにしていた。つまり、青年は左近のことを気に入っていたのである。その左近の周囲の人間関係も、名前はわからずともある程度は見知っていた。そして今、自分の面の本来の持ち主を左近がどれほど愛していたかも知っている。
 だからこそ青年はあえてその面のままでいる。
 左近を挑発することが目的ではなく、会稽の恥をそそがんとする彼を思い直してもらいたいという感情からである(それがどういった効果を生むかは未知数であったけれど)。
 口が悪く、左近に対して散々に暴言を吐き、新しい持ち主を探すなどと言ってはいたが、この気持ちは青年の根底にあった。
 青年のそういった言葉や態度に出ない心情を、今の左近には見抜けなかった。
 起き上がり、いざ大坂城へと自分を励ました左近に青年は水を差した。

「人間は好きか?」

 左近は訝しげに青年を振り返る。左近に呼応するように青年も大刀を抱え立ち上がった。

「お前は人間を愛することのできる人間だと思っていた。この国の人間はあまり人間を好きになるという感情を持っていないように見える。いや、個人を愛することはしても、人間を愛する人間がいない」

 その言葉に、左近はふと自分を振り返った。
 左近は人間を愛していた。比重が三成に偏ろうとも、根本的に人間を愛している。今は復讐の念に駆られているが、家康のことも左近はさほど嫌いではなかった。家康もまた、人間らしい人間のように彼には見えていた。
 そして、彼自身もまた人間らしい人間のうちだった。
 最も愛していた人間――三成を屈辱に塗れさせた人間を憎む、人間らしい感情に彩られ、それに突き動かされている。
 今までにもそういった人間はいくらでもいたし、左近も目にしてきた。それを人間らしくていいじゃないか、とすら考えていた。そういった意味で、三成もまた人間らしい部分を存分に持ち合わせている。
 今の左近は、それらの人間を高みの見物する立場の人間ではない。その渦中にあり、人間らしい人間を演じる立場にある。
 そう自分を見た左近は、それも悪くないと思う。

「俺もまた人間だ。お前にはわからないだろうがね」
「人間であるお前は人間を愛することができたのだ。それが突然にできなくなる理由がわからぬ」
「俺は死んだ。関ヶ原で、殿の志と共に。死んだ俺とここにいる俺は俺は違う人間だ」

 青年の言葉に、左近は頑なに応じた。それが左近の本音のうちのひとつであるが、全貌ではない。彼とて自身の本音を全て知っているわけではない。おかしな話ではあるが、一枚の紙にも表裏ありと言うように自分というものは他人などとは比ぶべくもないほどに理解しがたいものなのだ。その自分が、他人からみると単純でわかりやすいように見えるのだから人心とは奇天烈なものである。
 そう考えている左近だからこそ、自身の本音がどこにあるのか計りかねている。
 何も人間すべてが三成のように、一つの貫かれた信義の元に生きているわけではない。左近もかつては三成を助け、身命を賭して三成のために働くことのみばかりで生きたものだった。されど、その三成という彼の絶対的な象徴が頽れ、瓦解してしまった。
 唐突に三成を失った左近の心は、多岐に渡り、収拾がつきにくいものとなっている。
 その中で最も強いものが、家康への復讐というものだった。だからこそ左近はそれを一のかしらに据え、他の心を押し殺し、あるいは見てみぬふりをした。
 青年との出会いが、左近からその集中力を奪った。
 懸命に青年を排斥し、自らの心と向き合わずにいようとする左近の態度を青年が気に食わないと称すのも無理ではなかった。
 なにかを言い返そうと口を開きかけた青年だったが、左近はそれを待たずに斜面を下り始めた。青年は慌てて大刀を抱えなおし、左近に遅れを取らぬように小走りに追いかける。
 斜面は疲れきったような桑染の色をしている枯れ葉に覆われている。歩くたびにカサカサと裂けるような音を立て、続いて鈍い音がわずかにする。枯れ葉に覆われ日差しが届かないせいか、地は湿っている。斜面であることが足場の悪さに拍車をかけていた。

 左近は三成を戦下手として認識付けた忍城攻めを思い出した。
 忍城は沼地、低湿地にあり、難攻不落の城である。それを水攻めにしようとして失敗した。かの城は平地にあることから水攻めには向かない。水攻めにするならば相当の規模の堤を築く必要がある。結果は散々たるものであり、戦下手の烙印を押す仕儀となった(しかし実際はその水攻めは三成が提案したものではなく、秀吉が強く推していたものであったのだが)。
 武辺とはほど遠い官吏であると見くびられる風潮を増長させたそれを、苦い気持ちで掻き消した。

「さっき死んだと言っていたが、死んだ人間がここにいるのはおかしいだろう。お前は人間ではないのか?」

 決意新たに、と左近が意気込んだのも束の間。青年は左近の隣に並び、自分よりも高い位置にある左近の顔を見上げながら問いかけた。
 その仕草に左近はどきりとする。
 三成は左近に意見を尋ねるときによく青年のように眉間に寄せられた皺の下に無垢な目を覗かせていた。また、見上げるそぶりが関ヶ原本戦にて、馬に跨った左近を見上げる様に妙に似ていた。
 そして青年の言葉にも左近の心の臓は撥ね上がった。
 その問いをまるまる青年に返してもいい。左近はそう思った。
 死んだ三成と同じ姿をした青年が、ここにいる。そして自らを人間ではなく、また三成の霊とも言わず、刀の霊などと言う。青年は人間ではないのか。わかりきった答えの問いを必死に封じ込めていたが、もはやそれも無駄だった。
 動揺を悟られまいと、彼は努めて冷静に言った。

「……それは、物の喩えだ。石田治部少輔が一番家老の俺は死んだ。今ここにいる俺は、死んだ俺が削げ落ちた、単なる亡霊に過ぎない」
「お前、そういう精神論が言えるのだったら、なぜ俺を認めない。それは、ある種心のような目に見えぬものを具現化していることだろう。俺と変わらない」
「土俵の違う話だ。もうついてくるな」

 言葉を続けようとした青年を遮り、左近は身も蓋もなくそれだけ言って歩調を早めた。それ以上、青年の言葉を聞いてしまえばただでさえ危うい左近の芯が手折れてしまいそうだった。
 その危機を知っていながら、なおも左近はそれを乗り越えることができない。
 青年と出会い、たったの一日余しか経っていない。だが、その出会いが左近の目を覆う霧を薄めてしまった。五里霧中を猪のごとく駆けていた左近が、ふと周囲を見渡したのだ。
 その心すらも左近は、押し殺そうとした。今、彼が成そうとする打倒家康には到底役立ちそうもなく、むしろ邪魔とすら思えた。

 ――この年になっても、人間の心、ひいては自分というものはわからない。

 様々な言葉で自分を取り繕い、隙もなく武装していたはずだった。だが、いつのまにかその武装していた自分すらとんでもない虚像に思えてしかたがないのである。

「左近、お前はどうして俺を嫌う」
「殿の面、声でその名を呼ぶな」

 青年はしおらしくそう言ったが、左近の静かな声が耳朶を打つと同時に憤懣やるかたない様子を見せた。






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