洞窟の中の空気のぬるさは淀みすら孕み、左近に頭痛をもたらした。
よもや日も暮れてどれほどの時が経ったのか左近にはわからない。だが、体は確かに外の冷えた空気を求めるほどこの空間にいた。循環しない空気はわずかに身を捩じらすように時折新鮮な空気を運んでくるが、焼け石に水だった。
目は暗闇に慣れたが、かろうじて青年の姿を目にすることができる程度でしかない。
青年は大刀の刃取りと呼ばれる、深いねずみ色が鈍く輝く地中と霞み色に輝く刃文の境目を親指の腹で撫ぜる。それも何度目かもわからない行為なので既に埃は無く、ただ惰性に擦っているにすぎない。
退屈を極めたらしい青年はおもむろに口を開き、
「お前、寒くないのか」
と、問う。
傾きかけた体を気だるげに正し、左近はにわかに目尻を吊り上げる。
左近の頬は蒼白しており暗闇に浮き出すものである。それは寒さのみではなく肩口の怪我も理由にある。対して青年はというと、やはり左近に負けず劣らず青白いものだった。しかしそれは寒さからではなく、元来そういった色素なのだろう(青年の元となった人間もあまり血色のよい肌をしていなかった)。
左近のそれがどういった苛立ちなのかは明確には言い表せないが、ほとんどが八つ当たりじみたものなのだろう。
「寒くないわけないだろう。俺は正常な人間なのだからな」
「俺は人間ではないから、寒さを感じないのか?」
「白痴なんだろうよ」
元々、左近はこういった暴言を吐くような人間ではなかった。むしろ暴言とは正反対の人間と言ってもいい。物腰は多少武骨なれど十分な柔軟さを感じられたし、行き過ぎた三成への叱責の言葉も理性的で、聞く者の自尊心を傷つけることもない。
けれども今の左近はその知性の片鱗すらも失ってしまった。
彼は人間を愛していたのかもしれない。ただその愛の比重が三成に偏ってしまったがために弾みを打ち、他の全てを憎み身を焦がすがごとき嚇怒を身に宿している。
そのことを彼自身は自覚していないだろう。彼は今、ただ感情をむき出しにしている獣でしかない。
「人間ではない、だって? ばかばかしい。どうせ、どこぞの透波なのだろう。その面妖な術で俺をだまそうっていうのかい」
冷笑を浮かべ、青年を挑発するが青年は乗らなかった。
「お前、俺のことを信じていないのか」
「信用も信頼も相互関係の上に成り立つものだ」
未だ真の姿を晒さない人間になど語る言葉は持たない。
そこまでは言わなかったが左近は明確にそう言葉にした。その音無き言葉を繊細に感じ取ったのか、青年は刃文に爪を立てる。
話は終わったと言わんばかりに左近は目を閉じ、じっと寒さに耐える。
青年は左近と歩み寄ろうと努力したに違いないが、溝が深まっただけのようだった。一方的に歩み寄ろうとしてももう片方がそっぽを向いているのならそれは無駄なあがきにしかなりえない。それこそ、相互関係の上でしか成り立たない虚喝のようなものだ。
おもしろくない、と青年は大刀を構えて洞窟を出て行った。
左近はそれから、暗澹に沈んでいった。
日が昇り始めてしばらくのうちは冷え込みも著しく、左近はしばらく身動ぎせずに外の様子を窺っていた。
先の大戦から幾日か経ったとはいえ、残党狩りは未だに近辺をうろついている。合戦の地となった関ヶ原から遠く離れているとはいえ、首が見つかっていない左近やその他うまく逃げおおせた人間を血眼になって探しているに違いない。そう判断した左近は慎重に外の気配を探りながら洞窟から這い出した。
暗褐色となっている陣羽織はやや目立ちすぎる。自分は最近に戦に身を投じた人間だと公言して歩いているようなものだ。
東軍に属しているものであれば、彼を一目で島左近と断ずることのできる人間も多かろう。それほどに彼の最後の働きは尋常ならざるものであった。彼の腹の底から轟く掛け声を聞いた兵は恐ろしさのあまりに頭をもたげることもできず、棒のようになった足に鞭を打っていた。その彼を早々に忘れることもない。また、彼は石田三成に過ぎたる者と称されるほど知略も武辺も優れた逸材と言われていた。三成に仕える以前は『筒井家にその人あり』とも称され、多くの大名が彼に仕官するようにあれこれ手を尽くしたものだった。このたび、実質的総大将となった石田三成の一番家老である彼のことを知らない人間は、ほぼいないと言っても誇張ではない。
そうした己を自負しているからこそ彼は慎重さに輪を掛けた。
皮肉な事実に、彼は実に歪に笑った。
三成に仕えることを誇りにすら思い、三成の名を貶めぬよう励んだ結果、今はその名が邪魔になっている。
しかしそれもまた、名誉なことであると彼は思いなおす。己が働きは三成にとってわずかにでも支えになったのだと自らを励ました。
洞窟の外にある木の枝に青年は寝そべっていた。
相も変わらず蒲葡の肩衣をだらしなくはためかせ、素足をゆらゆらと左右に振っている。左近ですら肩に支えなくては不便な大刀を、左近よりも遥かに細い腕で軽々と持ち上げている。その様を左近は見たことが無かった。青年はいつも、大刀を両腕で抱えていたからである。
まだいたのか、と左近は鬱陶しげに青年を一瞥して、さくさくと歩き始める。その左近の背を青年は昨日と同じように追いかけた。
「なぜ、ついてくる」
昨日と同じ問いを繰り返す左近だが、同じ答えが返ってくるとは毛頭考えていなかった。
青年は確かに違う答えを左近に与えた。
「別に。つむりが悪くて、見ていておもしろいから」
「そうかい」
会話はそれで終わってしまった。
大刀を両手で抱えた青年は、音も立てず左近の後を追う。足音がしないのは、なにも青年が慎重に歩いているからではない。左近の足音に自分の足音を重ねているだけのことで、あたかも自分の足音を忍ばせているように思わせているだけだ。
もくもくと歩いているうちに、左近は青年が実際に存在しているのかどうか、疑問に思った。
されどなるほど。
青年に留意してみると、青年には人間としての気配がまるでない。そのうえ足音まで立てないとならば左近も青年に気付かない。
後ろを振り返れば青年の存在の有無を確認することも可能だが、左近は決して振り返ろうとはしなかった。自分が青年を気にかけているように思われるのが癪だったのだ。なんとしても左近は、青年を憎みとおす姿勢を維持し、歯牙にもかけないという態度を見せなくてはならない。それが彼自身の沽券に関わると信じ、遂行しようとしているのだ。
青年は三成と同じ姿で左近を罵る。
それが気に入らないのもまた事実ではあるが、左近はどうしても三成と青年を重ねてしまいそうになる。そうすると、三成自身が左近に対し『ばかなことはやめろ』と言っているように思えてしまう。
それが左近には恐ろしかった。
三成は家臣を大切にし、また領民も慈しむ男だった。そして清廉で潔白、少しの不正や不義を憎むような人だ。左近が家康暗殺の儀を持ちかけたときも、島津が奇襲を提案した際にも、にべもなく一蹴する形式にこだわりがちな面もある。これから左近が成そうとしていることに三成が手放しで喜ぶとは到底思えない。
策も無い、刀すら失った丸腰の人間が、大儀も掲げずに私怨とも似ている感情で家康の鎮座する大阪城へ単身乗り込むなど、目を剥いて左近を咎めるだろう。
だからこそ、青年の言葉が三成の意思のように思えてしまうのだ。
それも相成って、余計に左近は青年を排他しなくてはならなかった。
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