枯れ葉を踏み散らしながら左近は獣道を歩んでいる。そろそろ日も暮れようかという頃合であるが、一向に山を下る気配はない。
 左近の手先は朱を越えて蒲葡に近い色合いになってきている。昼なら日があるからまだしも、朝夕の冷え込みは格別だ。なにより今日は曇天に日が遮られて、昼ですら熱を吸収することができなかった。だが左近は一片も気にした様子を見せずもくもくと歩む。大刀があればもう少しは歩む速度も遅かったのかもしれないが、完全なる手ぶらである。とはいえ所詮は手負いの身だ。健常な人間よりわずかに劣る速度だ。
 その左近の後をひょこひょこと追う人間がいる。大刀を抱え、左近の指先のような蒲葡の肩衣を袴にしまわずに揺蕩わせていた。
 自分を刀の霊と称した青年である。
 面は左近と会ったときと変わらず、左近の主・三成のもののままだ。体つきはわずかに三成より中性的な要素を持っているが、その姿はほとんど三成と変わらない。
 それが自分の後を追ってくることが、左近にはなにより腹が立つことだった。
 左近が歩む速度を上げれば青年も大刀を抱えたまま、不便そうに追いついてくる。左近が木の根元に座り休憩すれば、いつのまにかその木の枝にぶらさがっている。方向を変えてあべこべに歩んでも、青年は鴨の雛のようについてくる。
 とうとう痺れを切らしたのか、左近は立ち止まり険しい表情で振り返った。

「おい、お前、なんでついてくる」
「お前こそ、俺の行く先に向かうな」
「ああそうかい。俺はこれから大阪城へ向かう。お前の向かうところは近江なのだろう」

 自分の主張のみを言い放し、左近はまた歩み始めた。左近が青年の行く先を近江と断定したのは、青年が自分で近江の担当と言ったことを覚えていたためだろう。

 変わり映えのしない道中に、冬の冷えた空気をしのぐにうってつけの洞窟を運よく見つけた左近は、多少警戒しながら奥へ足を踏み入れる。眠り始めた獣などに襲われてしまっては左近の決意もすべて泡と消えゆく。慎重に中の様子を探り、何者もそこに存在しないことを確認した左近は中で腰を下ろし、深い息を吐く。
 左近の向かい側には大刀を抱えた青年が、涼しげな顔で同じように腰を下ろしていた。青年は決して左近を見ることはなく、左近も顔を顰めただけで話しかけることはしなかった。
 火を熾すにも種がなかった。それでも外気に触れたままでいるよりも暖かい。青年はそう得心したように、何度か入り口付近を行ったり来たりする。
 裸足のままの足は、とても獣道を歩いたとは思えないほど清潔さを保っていた。いや、本当に外を歩いていたのかも疑わしいほどだ。多少なりとも埃がまとわりついていてもおかしくない。それなのに青年の足は出会ったときの美しさを保持している。

 ――大切に籠の中に収められ続け、外を歩いたことのない秀頼君の足のようだ。

 左近は青年の足のみを一瞥し、率直にそう考えた。彼自身はその少年の足など見たことはなく、想像するにこのようなものなのだろうという憶測でしかない。こういった考えは一人歩きしがちになり、やがて誇大なものへと変わってゆくものだ。
 洞窟の外は完全に日が落ち、中ももはやただの闇になってしまう。
 その時になって左近はようやく青年を明白に意識したのだが、その不気味さに戦慄さえ覚えた。青年には気配というものが微塵もなかった。人間が存在する限り、少なからず身動ぎする気配や、呼吸の息遣いというものが感じられるはずなのだがそれが青年にはない。
 己の面を自在に変化させた青年である。青年の言葉を有り体に受け止めるつもりはなかったが、少なくとも彼は左近の知らぬ類の人間であると認識していた。
 左近が青年の存在を認識できるのは、青年の抱えた大刀が地に擦れ冷えた音を出したときくらいだった。
 風の吹く悲しげな音にも飽きてきた頃、唐突に青年が口を開いた。

「お前って男は、ばかなやつだと思う」

 暗闇の中で存在するかどうかも疑わしかった青年の声がわずかに反響する。ささやかにこだまする自分の声に青年は驚いたように顔を上げる。
 左近は青年の言葉を耳にしてはいたが、なにも答えなかった。青年には見えないだろうが眉間に深い皺を湛え、鋭く一瞥したのみである。顔にははっきりと不快を表し、いかにこの青年に敵意を持っているかが窺い知れた。
 返事など期待していなかったのか青年はさらに続ける。

「この刀を目にかけるようになってからお前という人間を知ったが、最近になって気味が悪いほどばかだと思った。あるいはつむりが壊れていると思っていた」
「お前のような白痴に言われる筋合いはない」

 手ひどい返答にも青年はまるで堪えない。左近の言葉など最初から聞くつもりがないようだ。

「少なくともお前より明るいつもりだ。たまに人間は勘違いしている節があるが、刀は人を斬ることばかりを好むわけではない。そういう荒くれ者も確かにいるものだがな、この刀の繊細かつ緻密な輝きをお前は見たことがあったか。いかに美しく利用されるかが問題なのだよ。血糊に塗れることなど気色悪いだけだ」
「所詮、人間に利用されるべく創られた二次的なものだ。使わないより使ったほうがいい。たかが道具の気持ちなんぞをあれこれ妄想しているのか、お前は」

 侮蔑的な視線を青年に向ける(その先には暗闇しかないけれども)。細められた瞳は見るものに冷や汗をかかせる。
 暫しの沈黙の後、青年は蚊の鳴くような声で言った。

「俺は、やはりお前が嫌いだ」
「ああ、俺もお前のことは嫌いだ。いや、そのような生半可な感情ではない。憎い、俺はお前が憎い」
「なぜ憎む?」
「それくらい、自分で考えな。白痴のぼっちゃん」

 左近の一言には全て、鋭利な棘がむき出しにされている。
 ここまで左近が冷静さを欠いているのは今に始まったことではない。彼はこの山中に踏み入れる前、京で噂を真と確信してから滾る激情を押し込めきれずにいる。そして目の前の青年の存在がまた彼の感情を逆撫でする。青年と同じ姿の三成はその激情の根幹にある。その三成と同じ面、声音で左近を気に入らないと称し、また左近には到底理解しえない汎霊説、あるいは汎心論、汎神論を含めた突飛なことを言う。それが左近には許しがたかった。三成と同じ姿であるのに左近の望む三成の姿とはほぼ逆の姿を映す。
 そして、とどめのこの言葉が左近を卒倒させかけた。

「これもまた天命と受け入れ、隠居をするのがこの国の大名だと思っていたのだがな。時勢は明らかに江戸方、内府に傾いているではないか。お前のような人間を、井の中の蛙大海を知らず、と言うのだろうな」

 この一言に左近はわずかながら三成の面影を見出した。他人の感情を慮る術を持たない三成は無粋な発言で多くの人間の神経を逆撫でした。その様がこの青年と奇妙に合致し、左近は怒りやら情けなしやらで言葉を失ってしまった。
 青年は自分の発言に非があるとは思っていない。それどころか、これ以上にない的確な指摘をしたとすら思っている。
 それっきり左近は黙り、青年も口を閉ざした。
 刻々と重い時は流れてゆく。
 どちらも言葉一つ発さず、規則的に呼吸を繰り返すばかりだ。
 だが、いつからか左近の呼吸がやや乱れ始めた。今頃になって肩の怪我が熱を持ち始めているのだろう。京で具合を診たとはいえ、完治するにはしばらくの時間を要する。幸い弾丸は貫通していたから穏やかに療養していればさほどの後遺症は残さないだろう。
 それは飽くまで仮定の話で、実際には左近はこうして体に鞭打って、ほぼ一日中歩き詰めていた。その反動が今になって現れただけのことだ。
 それを眼中にいれていなかったわけでも、また恐れているわけでもない左近はただ深く息を吸い、細く吐き出すことを繰り返す。

「生兵法は大疵の基」
「ああ?」

 青年は左近に冷ややかな言葉を浴びせる。

「なまじっか武辺の心得や知識がある人間はそれ自負して軽々しく事を起こす。そして、大怪我をする」

 三成の姿をした人間に、これほど貶められ左近は怒り心頭に発するも甚だしいところであったが、我が身を省みることが出来ない人間でもなかった。
 ただ、その言葉を胸に刻みひたすらに耐えるだけだった。

「これは過去のお前にも、また先のお前にも言えることだろう」

 なにもかも見透かしたような青年を、左近は訂正しなかった。






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