『この天下餅、左近がついて殿に差し上げることにしましょう』
これは島左近が主・石田三成に向けた言葉だ。
うっすらと無精髭が生え、頬や額に赤褐色の泥と血液にまみれさせた精悍な顔立ちの男が島左近である。島左近は今、木枯らしに頬を撫ぜられながら大木に体を預けている。
周囲には人の気配はない。枯れ葉がカサカサと木枯らしに弄ばれ、ふわりと舞い上がるなり枝から振り落とされるなりしているがそれだけである。湿り気を帯びた土とそれを覆う枯れ葉、枯れ葉を生む木々しかない山中だ。
左近は体中をその頬や額のように赤褐色に染め上げていた。肩口を中心に滴っていたらしい痕跡があるが、すでに乾き赤みのある褐色となっている。当初は紅葉のごとく狂気すら感じられる紅が体中を染めていたに違いない。その脇に血糊が赤錆のようにこびり付いた大刀がある。
力無く腕を放り出し、じっと目を瞑り身動ぎひとつしない様はまるですでに死した肉塊のごとく覇気のないものである。
彼は必死に唇を噛み締め、その声が漏れぬように努める。しかし、強い意志のないただの悪あがきに激情は敵わない。
「……との」
彼の言う『殿』とは紛れもなく主・石田三成のことである。その主に向けた悲愁に満たされた言葉は木枯らしに乗せられ、虚空へと飛び散った。
腹の内に潜む獰猛な激情が急き来るのをひしひしと感じている。押し殺そうとする理性が彼の表面をかろうじて支配している。だが内では荒れ狂う波のごとき苛烈な感情が縦横無尽に駆け巡っている。彼が身動ぎひとつしないのは、そういった負の感情を手なずけているからだった。
『殿、この場は左近めにお任せくださいませ。どうぞ、生き延びて、豊家の磐石を確立されるよう』
汚れた手は、力なく放られていようと確かに刀の柄を握っていた。
頭の中で反芻したその言葉に、彼は表情を歪めた。悔恨とも苦痛とも違う、複雑なものだった。
『駄目だ、左近。お前がいなくては……、左近、俺はお前と、兵庫と、兼続、幸村と豊臣の世を守るのだ。駄目だ、誰一人欠けてはならない。誰一人とて欠けることは許さない』
主の言葉を思い出した彼は、柄を握りなおし、緩やかにまぶたを持ち上げた。
「殿……、殿、あなたが欠けてしまっては、意味がない。なぜ、かように左近は落ち延びた。天よ、殿のおられぬこの世にて、左近になにを成せと仰せられる」
左肩を庇うように左近は立ち上がり、刀の棟を右肩へ乗せた。
支えもなしに立ち上がることすら至難のはずであるのに、あまつさえ自慢の大刀を担いでいる。足元はおぼつかないが、姿勢は一本の棒が入っているように美しい。彼が怪我など意に介していないことが如実に感じられる。
ガサ、と足元で枯れ葉がもみくちゃになる。
「山中で捕縛された殿は大津城門前に生き曝しの恥辱を受けた。それから大阪・堺に謂れ無き罪人の汚辱を投げかけられ、六条河原で斬首刑となり、三条大橋に晒し首とされた」
彼は融通のきかない正義感に満ちた主を常に見てきていた。それが魅力に見えていたものだが、周囲にはいらぬ反感をいたずらにもたらす要因にしかならず、もどかしい気持ちはあれど憤ることはなかった。主はそれほどに他人に、そして自分にも厳しく律していたのだ。
だからこそ、此度の主の行動は彼には当然のことのように思えた。その身を全てもってして尽くした太閤の天下を喰らおうとする人間に尾を振るような人間ではないのだ。実際、主に賛同した直江山城守兼続は渋面ひとつ作らず呼応したのだ。主をよく知る人間ならば、主の今回の動きは当然のこととして受け入れる。それは主に同調し、なおかつ付き合える人間であるからという理由よりも、彼の人となりに魅入られた人間であるということが大きい。
彼は主のそういった、盲目的なまでに義を貫き通す姿を愛していた。彼自身の身命を賭すことなど彼には問題ではなく、主の義を守るために主にこそ生きていてほしかったのだ。
しかし、彼の主は死した。胴と頭が離れ、土を舐めた。
彼がそれを知ったのは、京の都で人に紛れ怪我の具合を見ていたときだった。
死地を脱し、退却する兵たちを恍惚とした表情で見送り、彼は主の補佐をすべく生き延びようとしたのだ。しかし、主と同じ方向へ落ち延びることはあまりに拙い。主とは正反対に、小早川秀秋が布陣していた松尾山から彼は無心に欠け、京に近い山中で傷を負った体を引きずり、傷が癒えるのを待ち、都に下りた。
雑多な噂が飛び交い、それは尾ひれをたなびかせていた。だが、そのどれもが主と呼応し立ち上がった者の死を孕んだものであった。
血に汚れた陣羽織を未だに羽織っているのは、彼の中で未だ関ヶ原は暮れていないという気持ちを表しているに他ならない。
柄の目貫を親指の爪で抉るがごとくに掻き、修羅の表情を携えた左近は掠れた声で呟く。
「こうならば、内府に一矢報いんとす。我が殿の理想に殉ずること叶わずとも、我が殿の義への陵辱をみすみす見逃しては、あの世にて殿にこの面をさらすことは出来まい」
まさしく彼は、手負いの獣であった。
爛々とたぎる眦を裂き、体中から禍々しい気を発し、力強い一歩を踏み出した。
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