生温いように思われるがそれに温度はない(彼は浸かっていた)。
 目を覚ました彼は「ああ、もう目が覚めてしまったのか」と残念そうに呟いた。目が覚めていることは彼自身が一番よく知っているしそんなことを音にしたところで誰もいないそこでは意味をなさない。けれど彼がそうしたかったからそうしただけだ。もう一度彼は同じ言葉を呟く。一度目よりも感情は薄れたけれど意思は増した。
 その行為に彼は意味を見出そうとした。しかし意味をなさなかった事柄に無理やり意味を見出そうとしてもそれは無意味にしかならなかった。





思考を忘れ泥濘に沈むことは許されないことだと君は痛感するべきだ。






「今日は雨が降るぞ」
「雨」
「そうだ。雨の中を行軍する」
「ああ、たしかに雨が降りそうだ」
「ところで左近」
「はい」
「お前は俺を覚えているのか、いないのか」
 不明瞭な問いだと左近は思った。そして即座に彼の望む言葉はありのままの意味ではないのだろうと悟り、しかしその問いの本質がわからず左近は黙す。生真面目が鎧を着てそこに存在するような主のことだ。意味のない言葉遊びなど平素では考え付かなかった。
(そりゃ、いきなり記憶がなくなるわけでもあるまいし、覚えている。しかしなぜ今そのような問いをされるのか)
 理解できない、いやしたくない。左近はそう思いながら彼の顔を窺った。安堵も焦燥も、嫌悪も恍惚も、無も有もないまぜになり複雑な感情を表現しているその顔を見て、ますます意味がわからなくなった。彼のことならたいていのことはわかると自負していたがそれは過剰な自信だったらしいとその年になってまた一つ学んだ(学んだところで進歩はしていないけれど)。
 一転、左近の頭痛の素となった彼はというと左近の返事を待たずして結論を知っていた。当然のことながら彼は左近ではない。だからその結論は彼にとって不可知の世界だったはずだった。しかしそれを知ることのできる唯一の方法がある。そしてそれを彼は実行し、結論を知った。
 その結論を知った彼は落胆していた。期待など持たぬように平静を取り繕い、また彼に対し愛着など持とうとせず一定の距離を置き高みの見物をしていたかった。けれど事実とは相当のひねくれ者で、彼は左近に過剰と僅差の期待と愛着を寄せ、距離はあいまいに、折々に近寄り離れ、同じ高さに存在していた。それを疎ましく思うことができなかったことが彼の敗因だった。
 落胆はやがて絶望になった。その絶望もやがては諦観になるのだけれど。
 すっかり自分の中で解決してしまった彼だったが、対照的に左近は未だ考えあぐねていた。左近に彼の中でもう答えはいらないとはっきり突き放されたことを知る由はない。
(左近にその気はないことを知ってはいるが、左近は経験からか俺よりも若干優位にいるように錯覚している)
 彼はそのことに対し、特別に不満を抱いたことはなかった。ただ、彼はそのことを知ったためにふと目の前の男が非常に脆弱な子供のように見え、敢え無くなせてやるのもまた慈悲であるかと考える。だがその行為もまた無意味なこととなることを彼は知っていた。
 身動ぎひとつせず、自分を熱心に見つめる彼に左近は居心地の悪さを感じはじめた。今までに左近が彼に対しそのような気味の悪さを感じたことなどなかった。その気味の悪さの正体は先ほどの問いと、また自分の答えに関わってくるのだろうかと左近は当たらずとも遠からずなことを考えていた。それならばと懸命に彼の意図を探ろうとするがやはり思いつくのは「最近寝ていないし、疲れているのだろう」という情けない回避だった。
 いい加減に、左近の頭が変な方向へ思考を始めたころ、彼はようやく口を開いた。左近は助け舟かと思い期待したが、彼は「答えはわかった」と、傲岸なお開きの言葉を口にした。それはそれで左近にとっては助け舟だったが、結局どういう真意が隠されていたのかなに一つ彼は口にせず、不完全燃焼だった左近は不満に思った。しかし口には出していない。年長者の安い意地が与えられる答えを望んでいなかったからだ。





これは至高のものだと君は考えるべきである。






「結局、この霧は晴れてしまうのだろうか」
 次に彼が不透明な問いをしたのは濃霧の中でだった。
 雨が降る前の問いについて考え飽きたばかりだった左近は、無理やりそのことを思い出されたように思い少し顔を顰める。けれど彼は左近の表情に頓着はしていないようだった。
 左近にとっては、どの言葉が前提にあり、どうあがいて「結局」と繋がったのか考えなければならなかったから一仕事だった。
 その一言は彼の独り言のように聞こえた。事実、彼は左近のことなど一瞥もせず、ただ霧の向こうを眺めていただけだった。その表情もまた奇怪だった。歓喜とも憎悪とも言いがたく、哀愁とも楽天とも言えず、躊躇いとも戸惑いとも違った。なんらかの表情を浮かべてはいるのだが、その表情を表現する言葉を左近は知らなかった。ただ、双眸だけが強い力を秘めていることは察した。
 真意は別のところにあるのだろうと予想は出来たが、その肝心の真意が闇の中だ。左近は少々の抵抗を感じながらも、「ええ、晴れますよ。もうしばらくもすれば」と、彼がわからないはずのないことを答えた。彼はばかにするなと怒るか、そんなことを訊いているのではないよと呆れるか、どちらかの行動を取るだろうと左近は踏んでいたがそのどちらでもなく、彼はただ憂いに眦を染め、まるで面倒だとでも言うようにため息をついた。呆れにも取れるため息だったがそれは空寂を嘆くようなものだった。
 左近には彼がこの戦を望んでいないように見えてしかたがなかった。けれどそんなはずはなかった。彼はこの戦により今まで胸を板のようにしてきていた案じ事から解放される予定であったからだ。しかし彼の案じ事はそれよりも遠い場所にあるように思えた。
 霧は未だ深かったが、銃声が響いた。それが開戦の合図となったようだ。
 左近は自分の隊へ向かわねばならないはずだったが、彼をここに残し去ってよいものか考えた。
「左近、行かないのか」
 彼は当然、そう左近に問う。左近は応と答えねばならなかった。否と答える確乎たる理由が存在しないからだ。彼の声は疲れきっていた。
 霧はあまりに深く、彼も左近もお互いの表情はほのかにしか見て取れない。
「左近、行け」
 反応ひとつ見せなかった左近に対し、彼は命令した。彼としては一度目の呼びかけで動いてほしかった。それならば自らが無理に彼を戦地に送ったと思える要因が軽減するように思われたからだ。焼け石に水のようなその希望も左近が動かないことで彼を絶望させた。
 一方、命令された左近は彼の不可解な表情に違和感を覚えながらも理性がそれを止め、その場を離れることにした。





その声が聞こえるか否かは君自身が考えることだ。






 眠りたいと掠れる声で絞り出されたそれが穏やかな静けさに溶けて消えたころ、交差するように全てが表象されてゆく。そのことに彼は深い意味を見出さずただ安堵して、ほう、とひと息ついて目蓋を下ろす。





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(サイト名、反復(もしくは鬼雨)を題材にした話)