俺がそこにいたのはなにやらの悪魔の仕業と言ってもいいほどに珍しい出来事だった。しかしなにも港の外れにある倉庫の中だとか喧騒の最中にあるテーマパークだとか『いかにも血迷った』という場所にいるのではない。なに、ただの市立図書館だ。
 市立図書館に市民がいてもおかしくはないのだが、俺はこの市立図書館はあまり好きではない。市立のわりに、小さくて通路が狭いうえに、資料に偏りこそはないが慢性的な数の少なさが気に入っていない。ちょっと調べよう、という気にさえなれないのだ。そのくせ人が多い。そんな場所では暇つぶしにも勉強にもならない。
 そんな図書館に、彼の姿を見つけたときはちょっとした胸の弾みよりもまず先に、意外ということしか思いつかなかった。

「おやおや、相変わらず熱心でいいことですね。そんな目の下にクマまで作っちゃってお勉強とは」
「からかうなら近寄るな」
「まあまあ、そうと言わずに。重そうですねえ、本。持ちましょうか」
「いらん」

 彼とは以前、この図書館の資料の不足ぶりについて文句を言い合ったことがあった。だから俺のちょっとした挨拶代わりの揶揄にもカチンときたのだろう。
 しかし不思議だ。こんなへんぴな図書館にまで来なければならないほど彼は切羽詰まっているのだろうか。見たところろくに休憩もとっていない。
 なぜか俺から背を向けて、「さっさと帰れ」だとか「こっち来んな」と必死に俺を拒絶する様はミステリーを通り越して不満である。税金も納めている市民の俺がどこぞかに眠っていた気まぐれを叩き起こしてここへ来て、やっぱり帰ろうと思ったところに珍しい姿を発見したのだ。せっかくだから彼の勉強でも眺めていたいと思うのはそんなにも悪なのか(彼と俺とでは分野が違うのでとても刺激になる)。

「まあ、そうつれないこと言わないで」
「こっちに来るなと言っているだろうが。貴様はバカか。鳥か」

 言外にトリ頭と罵られたわけだったが、そんなことで沸点に到達してしまうほど俺は若くなかった。いつもの悪態でむしろこれがないと少しばかり物足りないと思うというかこうでなくっちゃという気持ちで胸がいっぱいだ。決して俺は特別な性癖を持っているわけではない。
 そう考えている俺は、いつもの調子でのらりくらりとかわしながら彼に近寄った。しかし見慣れないタイトルの本が並んでいる。なんのジャンルの棚か確認していなかった。彼はまた新たな境地へ赴くのか。なんとも精力的な人だ。
 俺は知識はあって邪魔になるものではないと考えてはいるが、彼のように無節操にあれこれと食指をのばすようなマネはしない。彼の頭の中は雑学知識の宝庫だ。それを聞くのはとても楽しいし、新しい発見があっていいと思う。だが、それをただのウンチクとしか思わない人間もいるわけだ。知りすぎているということもまた煙たがられるというものである。しかし別にそれが理由であれこれに手を伸ばさないわけではない。
 そうこう考えているうちに彼はいつのまに俺の顔を睨みつけていた。

「どうか?」
「ここはお前のくるところではないと思うのだよ。うん。帰れ」
「はい?」
「いいから帰れ。帰らずともこの場から去れ」

 ゴンゴンと、頭を分厚い本で叩かれる。厚さからして図鑑、あるいはマニアックな専門書。大きさはA4ぐらいだから、図や絵が入っているやつだろう。
 その勘は当たった。彼の持っている本のタイトルをちらりと覗き見れば、なんとまあ『妖怪』という文字が目に入った。正確なタイトルは確認できなかったが、妖怪だった。

「妖怪、ですか」
「……だから帰れと言っている。お前ばか。すごくばか。エキサイトばか」
「勝手な偏見ですけれど、三成さんは不可知論を唱えそうなイメージが」
「うむ、おおまかその通りだ」

 ならばなぜここで妖怪を。そうは思ったが、彼のことだから『いかにそれが架空の生き物であるのか理論的、科学的に証明を』とか『ラプラスの悪魔って本当にいるのか? 悪魔ってどういうものだ?』なんてことを考えてもおかしくないかもしれない。しかし、こういう子供向けの図鑑に載っている妖怪なんてものはたいていが創作だってことはよく知られている事実だし、ラプラスの悪魔は物の喩えだ。ならばなぜ。
 本当にわからなかったから少し考え込んでしまった。その間に彼はさっさと俺に見切りをつけ、学習用に置いてある机に向かってしまった。抱えている本の数は五、六冊程度だが厚みが他とは違う。重そうによろめく足取りを眺めながら俺は後に続いた。ここで彼を手伝おうとすると、不機嫌を通り越して笑顔になってしまう。その笑顔が嫌いなわけではないが、何を問いかけても笑顔で無言だ。
 派手な音を立てて机に本を置いた彼は、ふうと息を吐き、椅子を引く。俺はその正面に腰掛けた。

「なんでついてきた」
「いやあ、目の下にクマまで作って妖怪のことを調べてらっしゃるようで、興味が」

 彼は多分、ちょっとだけ恥ずかしかったのだろう。いい年していきなり妖怪だなんて、とからかわれることが目に見えているから隠したかったのだろう。
 そういったことがありありと見て取れる表情を一瞬見せ、彼はため息をついた。

「妖怪って存在すると思うか?」
「まさか」
「だろう」

 本気で信じている人間には悪いが、そういうナンセンスなお話は正直嫌いだ。決して幽霊が怖いとかお化けが怖いとかいう話ではなく、単純に面倒だからだ。信じている人間は心霊写真だなんだと持ち出してそれは熱心に説明してくれる。それを否定するのが面倒だ。別に否定してほしくて説明してくれているわけではないのだろうが、信じていない以上、適当に頷いておくのも許せない。だから面倒だ。

「俺もそうだと思っている。だが、そういった話が出るからにはなにかしらの根拠が必要であると思わないか」
「まあ、火の無いところに、って言いますしねえ」
「だからそれを調べている。それらが本当に妖怪か、それとも科学的現象に過ぎないのか」
「で、今はなにを?」
「ネコ娘」
「……はあ」

 もっと、アカ舐めとか小豆洗いとか人魂とか一本ダタラとかうわばみとか。色々あると思うのに、ネコ娘とは。

「恐らく、犬歯が異常に発達し、不精なことに爪を伸ばし、つり目で一重という遺伝子をよく持つ半島経由の人間を見間違えたと思っているのだがな。どうしたものか」

 どうしたものか。本当に。

「そもそも、妖怪っていうものはなにかやましいことをしようとする人間を牽制する意味で創られた架空の存在なのでは?」
「別に。そのようなものだと思っているが」
「ならなぜ調べるので?」
「……道楽だ」

 まったく、若いものの考えることは突飛だ。そして理解しがたい。







01/11
(現代モノで「妖怪」の存在についてアレコレ話すトノとサコ)