「殿、それって美味しいんですか?」
「喰らうか、俺を」
拡大解釈をすればそういう受け答えもあるだろう。そしてその返答も別に予想の範疇外というわけではない。
大人を知らない子供のような人がある日突然、大人というものを知るときがある。その時に蛇を見つけるか鷹を見つけるかは本人次第で俺の知ったことではない。ただ、この人は蛇も鷹も鳶すら見つけなかった。それだけは自信を持って言える。
その子供のままの人は時折、怖気立つほどの鷹の目を見せる。子供は無意識の中に鷹を持っているということを、この人に会ってから初めて知った。
「別に食べる気はありませんよ。腹壊しちまいそうだ」
「ほう、清水に魚棲まずとは言ったものだが、お前も棲まぬか」
「棲まれる殿のほうが珍しいかと」
「解せぬな」
静謐に佇む彼から感じるのは、安定ではなく若い木々のように渋い騒々しさ、変動だ。
すぐに興味を失ったのか、慣れた手つきで彼は筆を指に絡ませる。頬杖をついて、指先でくるくると踊る筆をしばらく眺めている。
この人には余裕がない。本当は猫の手でもなんでも借りてあちこちに走り回りたくてどうしようにもないはずだ。本当は自分にできることが吹けば飛んでしまうほどたいした量でもないことを知っている。けれど動き回らなくては落ち着かない。別に彼が特別なのではない。たいていの人間はそういうものだ。
そうとなってしまうのもしかたないものだ。
ようやく、彼の奥歯に長年挟まっていたものが取れる時が来たのだ。
「さっき、美味いかどうか訊いたな」
「ええ、訊きました」
「不味ければ俺は食わん。だが、美味いから食っているわけではない。惰性、日常、義務、生存本能、似たようなものだ」
「おや、美味しいものではないんですか」
「それじゃ、まるで俺が旨い汁を吸っているみたいだ。別にそう思われてもかまわんが、もしお前がそれを喰らうのなら、生半可な覚悟では手をつけるな」
「はは、左近に説教しますか」
「忠告だ」
「この期に及んでなにをおっしゃいますか。手をつけたものは違えど、似たものを食ったようなもんです」
彼はそれに則するのではなく、それを消化し血肉にした。生きることと同義のように『義』と呼ぶ。
別に興味はない。
ただ、彼を心から支えることができればいい、などと思い上がったことを考えているだけだ。
silencieux theatre
左近の言いたいことはいつもわからない。
思想の面で俺を理想家と言うが、左近の言うことは抽象的だ。対して俺の言うことは理屈をこねたようなものらしい。
今考えるのは辿った道のことではなく、これから辿る道のことだ。
そう考え直し、頭から左近を追い出した。
頭から左近がいなくなると、途端に空を裂くような銃声が耳にねじ込まれる。最初はもっと、風に乗った叙事で理知的な音だったはずだ。だが、今、それらは情緒を孕んだ叙情の大音声となっている。
自慢ではないが、俺にはあまり声量がない。ここで俺がなにを叫ぼうと、夕暮れの鴉の鳴き声ほどしか意義はない。
「なぜ、人は鑑識眼を持たない。上翳なのか」
義と不義は明晰判明としているというのに、人はあえて盲目を選ぶ。いや、盲目であるのは俺なのだ。義を盲信するあまり、勝利の原因を見落としていた。
悔いる行為は意味がないからせぬ。
いや、人は時々意味のないことをしたほうがいいと誰かが言っていた。その真意は俺にはわからない。
「先が見えているからこその決断だったとは思いますが」
「所詮、泥水にしか棲息できぬ不浄の輩か。清水を守ろうともせず、自分の棲みよいように泥へ変えてしまうか。あつかましい害虫よ」
「……ならば、殿は」
「左近、今動かすのは口ではない」
「そりゃ、そうですな」
ならば俺自身は清水に棲む見目良い魚であると言いたいのか。それとも水面を泳ぐ鳥であると。あるいは水面下で黙する貝か、水草か、波紋をつくるそよ風か、水辺で涼む麗人か。
実際は、そのどれでもない。
左近はもう覚っている。俺にこの居丈高な癖を注意する意味はないと。この戦は負けだと。俺に再起を図るなど、実は口のない商人が雑草の葉を刈ることと同義だと。
「左近。俺もきっと清水には棲めぬ。だが、棲む努力はするだろうな」
「これまた、難儀な道を」
「楽な道などあるのだったら、叩き壊してやる」
「はは、おもしろい人だ」
左近は笑って馬の尻を叩いた。
俺はきっと、清水で溺れ死ぬ。
12/26
(比喩表現をちりばめたサコミツ)